同じように規模の大きい横穴式石室はさらに西に行って、はじめにとりあげた中山寺境内の白鳥塚古墳ということになる。墳丘はいまはなはだしく形をかえているが、おそらく円墳であったろう。南に開口する両袖式で、石室の全長は一五・二メートルである。玄室は、長さ六メートル、幅二・五メートル、高さ三メートルで、羨道は長さ九・二メートル、幅二メートル、高さ二・四メートルを測る。もっとも、羨道の前半部には、後世にさらに、石垣が付け加えられている。石室の内壁はよく整っており、切石づくりの石室をまねているようである。
玄室の中央に安置されている家形石棺は、縄掛突起をつけた蓋と、くりぬき式の身からなる。蓋はたて一九〇センチメートル、横一一五センチメートル、高さ五〇センチメートルで、前後に一つずつ、左右に二つずつ、計六つの縄掛突起がついている。頂部にたて一三五センチメートル、横五〇センチメートルの平坦面をのこして、四方へ斜面をつけている。身の内側はわからないが、たて一八〇センチメートル、横一〇七センチメートル、高さ九六センチメートル余である。
この古墳は、おそくとも近世初頭には開口していたと考えられ、遺物はのこされていない。年代決定の有力な手がかりとしては、石棺を第一にあげることができよう。この石棺材である凝灰岩は、六世紀後半以降に石棺が盛んにつくられた播磨の石棺のそれときわめてよく似ている。さらに、この石棺の製作についてもその技法は播磨の石棺を作った工人たちの手法によく似ている。したがって、この石棺は播磨でつくられ、運ばれてきた可能性はきわめて大きい。そして、播磨地方の石棺との比較から、六〇〇年前後の時期としてよい。長尾山系では、これに少しおくれるころより、横穴式石室が急激に縮小した古墳のグループが出現する。この群集墳の転換期において、白鳥塚古墳の被葬者は、この地域に大きな力をふるったものとみられ、また武庫川流域とのつながりを新しくしめすものかともみられる。