はじめ北九州や畿内に出現し、全国にひろがっていった横穴式石室は、中央官人層や地方の首長層にうけ入れられていく中で、石室の定形化、巨大化が試みられていく。さらにこれを大王クラスが採用し、極度に巨大な石室をつくるようになる。そして、それらの影響をうけ、各地における有力な首長たちも巨石をもちいた石室をつくる。その流れが、西摂にあっても、これまでに見てきた古墳としてあらわれたのだろう。
最後に、中山寺境内の舟形石棺にふれておこう。身部のみであるが、長さ一九一センチメートル、幅は中央で八二センチメートル、高さ四六センチメートル、くりこみの深さ三〇センチメートル弱を測る。その年代は五世紀末と推定されている。
ここで、西摂北部でみられる首長たちの葬られた古墳について、まとめてみよう。五〇〇年ごろ、長尾山系南麓の西寄りで舟形石棺をおさめる古墳がつくられたと考えられる。これを築造した首長は、宝塚市域で武庫川流域を支配していた人物であったのかもしれない。あい前後して、同じ南麓の東端で、西摂で最初の横穴式石室古墳として、勝福寺古墳が築かれている。この猪名川流域に臨んだ支配者についで、猪名川左岸に、最大の横穴式石室古墳である鉢塚古墳が築かれ、左岸一帯の支配を進めていく。右岸の長尾山麓では、東端の勝福寺古墳のあるグループをふくめて、古墳群の形成がはじまる。五五〇年ごろ、雲雀山東C1号墳は、群集墳の形成されはじめた時期に、それらの群集墳を築造するようになった有力者たちを率いる首長によって築造される。六世紀後半からは、単に長尾山のみならず、六甲山東麓にあたる武庫川の右岸でも、横穴式石室古墳がつぎつぎ作られていく。六〇〇年ごろ、武庫川の両岸一帯を支配したかと思われる首長が、白鳥塚古墳を築いた。かれは、武庫川を通じて、播磨地方との交渉をもっていた。