市内に多い後期古墳

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かつて、平井や山本、中山寺などの人びとは、荒木村重の兵乱のさ中に、信長の軍勢を恐れて、長尾山の山中に数多くあった洞穴にひそんだと伝えている。いい伝えの真偽はともかくも、この洞穴が、開口していた横穴式石室であったことは、まちがいなかろう。
 宝塚市内には、六世紀から七世紀にかけて数多くの横穴式石室古墳がつくられた。長尾山のみならず、武庫川をはさむ両岸一帯、そして六甲山東麓の地域にあっても同様だった。しかし、その大半は、ここ五十年来の開発によって失われつつあり、一部を残すのみである。われわれが、古墳群のもつ意味を考えるとき、あらためてその保存についても配慮しなければならなくなる。ことに、宝塚市の市名そのものが、古墳と密接なつながりをもっていることも、忘れないでおきたい。