市内の古墳に対する関心は、すでに江戸時代にはじまる。当時の地誌や地図には、そのころ古墳につけられていた名を記すものも多い。市名の宝塚となった小字名も、あるいは古墳に由来するものかもしれない。
近代になって、鉄道や電車の開通とともに沿線の開発は活発化する。明治・大正から昭和前期にかけて、阪神地方で活躍した考古学研究者たちの記録中には、いまは失われた古墳や遺跡にふれている個所も少くない。紅野芳雄の『考古小録』には、大正七年(一九一八)六月に、阪急花屋敷駅の北方で、金環三点、土器三点を出土して、古墳が破壊されたという新聞記事をとどめている。西宮に在住していたこともあって、かれの記録には武庫川右岸の記事がくわしい。また、古墳時代より前の時代におもな関心をよせていたので、古墳についてはあまり多くはない。それでも小林ゴルフ場の甘香園碑古墳(昭和二年)、仁川北方の東西に走る尾根にある四基の横穴式石室古墳(昭和十年)などの存在を記している。
市内における後期古墳群についての、本格的な調査や研究は戦後にはじまる。昭和二十六年(一九五一)に大久保基夫は、雲雀丘の三基の横穴式石室をはじめて実測した。ついで昭和二十七年(一九五二)、当時の長尾村では、助役坂上文夫の発議により、そのころまでに知られていた古墳の所在をたしかめる分布調査を実施した。その結果をもって字界図に位置を記入し、長尾山古墳群の最初の総合的な分布図がつくられた。行政区画を越えて旧西谷村域にまで調査を及ぼし、完全を期したのは、きわめてすぐれた見識といえよう。ただ地形と個々の古墳との関係は不明であること、個々の古墳群内における古墳相互の位置が不明確であること、縮尺が小さすぎて便宜的な記入にとどまることなどの問題はあるが、何よりも、戦後まもない時期に、もっとも基本的な作業を完成させていることは、注目すべきことである。この分布図は今日すでに失われている古墳群を復原する、有力な手がかりとすることができる。
昭和二十九年(一九五四)には、土木工事に先立って、兵庫県の指導のもとに、雲雀丘古墳群のうちA群六基とC群三基が調査された。ひきつづいて、昭和三十二年(一九五七)には、すでに破壊されつつあった雲雀山東尾根B支群は、石野博信らにより完全に発掘調査された。とくにこの調査は、長尾山に典型的にみられる、古墳時代終末期の極端に縮小された横穴式石室古墳からなる群集墳を、はじめて本格的に調査した例である。
昭和三十七年(一九六二)、四十三年(一九六八)、四十五年(一九七〇)と、長尾山における古墳群の分布調査かくりかえされ、その全体像は徐々に明らかになってきた。