宝塚市域のうち、西摂平野にのぞむ長尾山や、六甲山東麓の連続する丘陵は、明治・大正・昭和の各時期を通して、住宅地として、またゴルフ場などとして開発されてきた。しかしその場所は、数多い古墳の分布している地域であった。これは古代も現在も、人びとが利用するのに適したところであったからであろう。
戦前には、古墳に対する関心もうすく、法的規制もないため、専門家でさえ工事現場で遺物を採集したり、できるかぎりの記録をのこすのに止まっていた。したがって、西宮から芦屋にかけての六甲山南麓一帯に、かつて存在していた群集墳については、ほとんど記録はのこされていない。宝塚市域に隣接する仁川上流の河岸一帯にかけて群集墳を形成していた古墳も、昭和初年からいつしか失われていき、いまは数基をのこすにすぎない。同様に宝塚市内の花屋敷や雲雀丘にあったと思われる古墳の記録もほとんどみられない。
ただ、川西市花屋敷山手町の旧豆坂付近では、大正年間に、その古墳跡から赤焼土器とともに青黒い土器を採集したと伝えられている。また、川西市加茂の宮川石器館には、花屋敷や雲雀丘で採集したといわれる数多い須恵器が展示されている。さらに、雲雀丘一丁目で、いまは修道院の敷地となっている箕面自由学園の旧校地では、昭和初年の校舎建設の際に須恵器が出土したと、当時の校長が語っている。平井の阪本安一宅などに平井の八幡神社付近にあった古墳から出土したといわれる須恵器も所蔵されている。以上が戦前に消滅した古墳のなごりである。
戦後になると、雲雀丘二丁目・三丁目にあった古墳があいついで消えている。雲雀丘の住宅地の東辺、花屋敷の住宅地との間にのこされていた八基の古墳は、昭和二十九年(一九五四)に調査ののち撤去されている。そのうちの一基(雲雀丘一号墳)の石室からは、被葬者の頭蓋骨・歯など二体分のほかに、金環・玉類・刀剣・馬具・須恵器・土師器など多くの副葬品が検出された。
六甲山麓の南・東斜面や長尾山麓は、さきにも述べたように、大正・昭和初期に住宅地となったため、古墳の跡をとどめないものが多い。とくに戦後は住宅地が拡大し、山麓面のかなりの上方までに及んでいるため、消滅する古墳も多いが、またこれまで知られなかった古墳が明らかになったのも事実である。山本古墳群のB支群では、聞き取り調査の結果、九基の消滅した古墳をふくめて一五基であったことが確認された。この付近一帯は現在須恵器の散布地となっている。
六甲山東麓面においては、武庫川右岸にみられる古墳群のうち、もっとも北寄りに位置し、旧扇状地の上にあったと思われる宝梅園古墳群が失われている。いま宝梅中学校の校庭に移築されている横穴式石室は、もと宝梅三丁目にあったものである。しかしこの群集墳を構成していた古墳の数は明らかでない。
宝塚南口から塩尾寺参道の途中にいたる地帯も、数多くの古墳が存在していたと考えられるが、すっかり姿をかえており、逆瀬川流域の扇状地面でも宝塚高等学校付近まで開かれ小林から仁川にかけての山手台地面も、すでに旧状をとどめていないため、位置を知ることができない。仁川五ケ山・旭ガ丘の古墳も現在ではみられない。
さきにもふれたように、長尾山の古墳群で最大の規模をもった雲雀山東C1号墳も同様な悲運に遭い、近年おしくも撤去された。その後、これに隣接するC2号墳も、最近の工事のため一部が破壊され、行政指導による特別な措置がとられている。またおなじ雲雀山東A支群の九基および西A35・A37号墳の所在する地域に、宅地造成工事がおこなわれることになり、文化財保護法の定めるところによって、工事に先立つ調査が行なわれている。
このように、阪神都市圏にくみ入れられてきた地理的事情によって、歴史上重要な意義をもつ長尾山麓や六甲山麓の古墳が、つぎつぎ消滅していったことは、古代の宝塚を明らかにするうえでも惜しまれる。