これまで明らかになった市内の後期古墳群をたしかめてみよう(図68参照)。長尾山丘陵にみられる古墳群は、東は川西市火打の勝福寺古墳より、雲雀丘・平井にかけてを中心とし、西は川面の妙見山古墳にいたり、地形的にも東は猪名川、西は武庫川を境とし、いちおう独立した分布圏を形成する。大きくわけると東から雲雀丘古墳群、雲雀山東・西古墳群、平井古墳群、山本古墳群、山本奥古墳群、中筋山手古墳群となり、さらに西の白鳥塚古墳や妙見山古墳などを加えて約二六〇基におよぶ。消滅した古墳を加えると約三五〇基が、西摂平野をのぞむ長尾山系の南斜面に集中していたことになる。
武庫川を越えて、六甲山東麓には、北から宝梅園古墳群にはじまり、ハクサリや小林ゴルフ場内、鹿塩、五ケ山に点在した古墳、そして旭ガ丘古墳群をあげられよう。
さらに南に目をむけると、仁川の両岸には、かつて数十基の古墳がみられたようで、西宮市内に入ると、仁川河原古墳群約二〇基、関西学院大学構内古墳、五ケ山貯水池古墳、上ケ原八幡神社古墳、同入組野古墳、同芝川農園古墳、門戸(もんど)古墳群、岡田山古墳群、六軒山古墳群などが、上ケ原丘陵一帯に分布していた。六甲山南麓にはさらに西へ、西宮市から芦屋市、神戸市にかけて、八十塚古墳群を代表とする古墳群の分布がみられる。その中で、昭和四十年(一九六五)に発掘調査された苦楽園五番町古墳は、墳丘の裾に列石をめぐらし、しかも一墳丘内に平行して二つの横穴式石室が築造されているという特異な構造をもった六世紀末の古墳である。
これらの地域は、すでにのべたように、早く戦前に住宅地として開発され、先人の記録のみにとどめられている古墳も少なくない。また、学術調査を経たものも少なく、断片的な記録と最近の調査から推定するしかない点が多い。