西谷で発見された後期古墳

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長尾山を北にこえた西谷地区では、これまで古墳らしいものを見たと伝えるのみで、確認されていなかった。東方の猪名川上流域でも同様で、ここ十年来の分布調査で、わずかに川西市多田地区の丘陵上に、二、三基の古墳が発見されたのみの空白地帯となっている。
 ところが、さらに東北方の能勢盆地一帯は、古墳の集中している地域で、後期の横穴式石室古墳、または同時期の古墳と推定されるものだけでも、九〇基弱となる。また、西方の三田市および神戸市東北部などの旧有馬郡一帯も、武庫川東岸を中心にして、古墳が多く分布し、二〇〇基近くに上ることが最近の調査で知られてきた。なお、三田市の青竜寺一号墳は、床に磚(せん)を敷くめずらしい横穴式石室古墳である。

写真83 青竜寺1号墳の磚


 この二地域にはさまれた宝塚市北部と猪名川上流域にみられる古墳分布の空白については、単に狭い谷盆地が古墳時代の生産には適しなかったというだけでは、説明できないものであった。
 このたび、市史の基礎調査として、西谷地区ではじめて本格的に行なった分布調査の際に、大原野西部の丘陵の南斜面で、かつて伝えられていた一基の横穴式石室古墳を確認した。おそらく周囲を調査すれば、その数は加わるであろう。いずれにしても、古墳時代の後期には西谷地区の開発がすでにすすめられていたことの確証を得たといえる。また、この地域の古墳時代における開発は、武庫川水系と猪名川上流域を結ぶ古くからの東西の交通路を利用して、西の三田方面より東へ及んできたものであろう。