群集墳の意味するもの

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このような横穴式石室古墳を中心とする古墳群の形成は、宝塚市域のみにみられる現象ではないことはいうまでもない。全国的にみても、六世紀から七世紀初頭にかけて、各地で爆発的に古墳の数が増し、しかもそれらが群集墳を形成していく。その直接の契機がどのようなものであったかは、推定するしかない。
 その根本的な原因は、生産力の向上にともなう政治的社会的な変化によるものだろう。ことに生産物の余剰を蓄積して、次第に各共同体の中で、相対的な自立をとげるようになった家父長を中心にまとめられた有力家族が、それぞれ固有の墳墓をつくるようになったためであろう。横穴式石室の採用は、それまで共同体の首長たちにのみ限られていた墳墓の築造の意義を次第に変え、家族をともに葬る墳墓をつくる思想を発達させた。また権威や権力の誇示は、必ずしも墳丘の形によらなくても、他の手段、たとえば寺院のような新しい建造物をつくること、珍しい品を多く貯え用いることなど、別の表現によることも考えられるようになったのではなかろうか。
 いずれにしても、従来の首長の下にあった家父長を中心とする有力家族が、墳墓をつくるようになったことが、群集墳の形成を導いたのであろう。したがって、群集墳形成の初期には、盟主である首長の墳墓が、他に比して一段と大きくつくられ、より小規模な墳丘が周囲に群をなすようなあり方が、しばしばみられるようである。
 しかも、この群集墳の形成にあたっては、漠然とその占地がきめられるのではなくて、墓域としての一定の範囲が、ゆるやかではあるが、限定され、その範囲内で墳丘がつくられたようである。共同体内の家父長をひきいる首長は、有力家族がそれぞれ独自に墳丘を築くことを認めたとはいえ、築造にあたっては、共同体として一定の規制が行なわれたようである。
 墳丘に木棺を直接埋めたり、横穴式石室が使われていても、その規模、副葬品からみて、支配者層すなわち首長たちの墓といえないものが多い。全国の古墳数のおよそ九〇%がこの種に属し、山間から孤島にいたるまでひろく分布している。その数はきわめて多く、古墳に葬られる人びとの層が急速に増したことを示す。前方後円墳や大型の円墳・方墳などのみから構成された典型的な支配者の古墳群をのぞいて、このような小規模の古墳をふくむ古墳群を「群集墳」とよんでいる。
 宝塚市内について、これまでみてきた古墳の多くは、ほとんどこのような群集墳を形成しているものが多い。とりわけ長尾山の南麓にみられる群集墳を代表的なものとする。