長尾山の群集墳には、のちに述べる特殊な小型横穴式石室や小型箱式石棺のある古墳のみられるものがある。
そこで群の中に、それらの特殊な古墳をふくまない、ふつうの横穴式石室古墳のみで構成されている群集墳をⅠ類とし、それらの特殊な古墳をふくむ群集墳をⅡ類としたい。Ⅱ類の典型的な例は、平井古墳群の東・西尾根支群であり、雲雀山東尾根A・B群である。
Ⅰ類のふつうの横穴式石室古墳のうち、雲雀山西A37号墳は、南に開口する両袖式の石室で、玄室の平面形はほぼ方形で、玄門の両袖石は内側に張り出し、障壁ともいうべき構えをみせている。埋葬されたのは、少なくとも三体以上で、追葬の際には、先の副葬品などをかき出して片付けている。副葬品としては、馬具、鉄器、金環、須恵器などがみられる。他の古墳では、ほとんど副葬品が失われているため、これらのよくのこされていた副葬品は、長尾山の群集墳を考えるうえで非常に重要な意味をもつ。なお、玄門での障壁に似た構造は、中筋山手8号墳にもみられる。
雲雀山東尾根B支群は二三基を完掘したが、Ⅱ類に属する小型横穴式石室古墳や箱式石棺の他に、やや大型の横穴式石室古墳もふくんでいる。しかし、副葬品は全体に乏しく、須恵器や土師器が若干みられる他には、B7号墳で刀子を出している程度である。木棺の釘(くぎ)を残すものがわずかにみられただけであった。
したがって、西A37号墳が、副葬品から、およそ六世紀後半の早い時期につくられたと考えられることは、雲雀山の群集墳の中で、東C1号墳についで、東C2号墳とほぼ同じころに西A37号墳が築かれたのではないかと推測され、さらに東B支群は、それらよりおくれて築造されたと考えさせる。
副葬品、とりわけ須恵器の編年からいえば、長尾山の群集墳のうちⅠ類は、六世紀なかばから七世紀初頭にかけて築造され、その後は追葬のみが行なわれたのではないかとみられる。