宝塚の後期古墳

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市内の後期古墳の多くは、まだくわしい調査を経ていないが、ここで大まかな見通しをまとめてみよう。
 長尾山の群集墳は、少なくとも六世紀なかばから七世紀はじめにかけて営まれ、武庫川の西にあっても、仁川旭ガ丘古墳群のように、六世紀後半から七世紀はじめにかけて営まれている。西谷の一古墳をはじめ、内容の不明な横穴式石室古墳は多いが、いずれもほぼ六世紀後半を中心とする時期に築造されたとみて、あやまりはないだろう。それでは、これらの古墳の築造者が、首長たちのもとに台頭してきた有力家族層であるとしても、どのような背景があるのだろうか。
 弥生時代以来、古墳時代を通して営みつづけられてきた農業生産の発展は、次第にそれまでは不毛の地であったところを開くことを可能にしたし、一部には専業集団の独立も可能にした。それにしても、宝塚市域について、この時期にどれだけ農業生産が進められていたかを直接物語る資料には、いまは乏しい。古墳の築造者たちがどこに住んでいたのか。どのような生産活動をしていたのか。その手がかりは非常に少ない。しかしながら、後期古墳の広範囲な分布そのものが、明らかに、生産基盤の拡大と発展を告げている。古墳時代になって、波豆の谷間に、山あいから流れてきた武庫川の両岸に、そして長尾山の南にひろがる伊丹台地の北縁に、人びとは定着し、農耕を営みはじめた。宝塚の市名が、かつて後期古墳いずれかにつけられた名に由来をたどることができるとすれば、まさに宝塚の歴史は、この時から本格的にはじまったといえよう。