小型横穴式石室をふくむ各古墳群について、簡単にまとめておこう。
①中筋山手古墳群
この古墳群は、中筋山手の丘陵の西斜面から、南の尾根筋をめぐって東南斜面にかけて五~六基分布する。そのうち一基が小型横穴式石室古墳である。半壊の状態でかろうじてのこっており、石室は、ほぼ南をむいて開口している。石組は一段で天井石はない。奥壁は大小二枚の板石をならべている。石室の幅は、〇・六メートル、残っている長さは一メートルをはかる。箱式棺との見方もあるが、奥壁の構造より小型横穴式石室と判定できよう。
②山本奥古墳群
中期のはじめにあたる長尾山古墳のある尾根上を西北へ約三〇〇メートルの地点に三基(B群)、約八〇〇メートルの地点を中心に三支群(C・D・E群)が東西に尾根上のゆるやかな斜面に分布する。
全部で十九基あって、B群三基、C群八基、D群六基、A・E群は一基ずつである。小型横穴式石室にあたるのは、そのうちの七基であるが、棺をおおうに足るのみという規模の例はC5号墳だけで、それより少しゆとりのある例は五基になる。
C・Dの両群はそれぞれ八基、六基からなり、その中心にC1号墳、D4号墳のように全長四~五メートルをはかる石室をもつ古墳があり、もっとも小さいC5号墳は、石室の全長わずか一・六メートルである。
③平井古墳群
標高二〇四メートルの燈明山の南斜面に、東西のA・B二群にわかれて分布している。墳丘を認められない古墳もあるが、大部分は小さくても封土がある。
石室の規模をみると、両群を通じて最大なのは、西のB42号墳で、長さ六・八メートル、幅一・一メートル、高さ〇・九メートルである。長さはふつうの横穴式石室に近いが、幅・高さは小型横穴式石室のそれといえる。玄室相当部には敷石があり、七世紀前半の須恵器が出土している。墳丘の規模からみて、このような類に入るかと思われるのがB27号墳である。しかし、墳丘が完存しているので、石室のようすはまったくわからない。
石室の幅は一メートル以下であっても、その長さが三メートルをこえている古墳は、西で八基、東で一六基である。両群は、石室の長さ三メートルを境に、はっきりわかれている。西群では二・八メートルから三・四メートルまでの例はない。これに対し、東群では三~三・六メートルに集中している点に特色がある。
B群の下端に分布する五基については、発掘調査が行なわれている。その特色としては、石室内にはいずれも敷石があること、玄室相当部と羨道相当部が、敷石の有無または石材の大小で区別できることである。その中で、B48号墳は、石室の長さ二・二メートルで、玄室の長さ一・三メートル、羨道の長さ〇・九メートルにすぎない。このような玄室と羨道の区別が、機能上どのような意味をもったのか、非常に疑問ではあるが、横穴式石室の形式を踏襲しているといえよう。この両群は、一部にふつうの横穴式石室に近い長さの石室がみられても、ほとんど全部が小型横穴式石室の類型にはいる。
両群ともに、それぞれ一〇〇×七〇メートルの範囲内に集中しており、この範囲外にあるのは、西群で四基みられるにすぎず、東群では下方はるかにはなれて一基が存在するのみである。この集中した状況からは、墓域を特定の区域に限る規制があったと考えられる。
西群の西側は、地形的に古墳の立地に適しているにもかかわらず、群の西辺は上端から下端まで一直線に区切られており、群からはなれている四基も、その線の内側にある。東群でも古墳の分布範囲は、適当な区域を人為的に設定して、強力な規制を加えた結果とみられる。
各群内で個々の古墳が分布する状況をみよう。西のB群では同一等高線上に同じ規模の古墳が二基ないし三基ならび、その周辺には、より小型の古墳がある。小型の古墳はやや不規則に分布しているものの、非常に密集する場所とまばらな場所は、はっきり区別できる。なお、西群中央部の西半には小型墳が多い。東のA群もほぼおなじような傾向をしめすが、墓域内の下方に小型墳が多いことが注目される。
この古墳群が占める燈明山(ひとぼしやま)は、全山いたるところに、小型横穴式石室をつくるのに適した岩石が露出している。石材を容易に入手できたことが、ここに古墳がつくられるようになった大きな理由の一つであろう。
④雲雀山西古墳群
平井古墳群と谷一つへだてた東の尾根上にある。標高一四〇~一五〇メートル前後のややゆるやかな傾斜地に、十九基があり、東西三〇メートル、南北八〇メートルの範囲内に密に分布している。さらに下方のやせた尾根筋の西側にも一七基が南北一八〇メートル、東西三〇メートルの範囲で、比較的散在しており、石組みがくずれてはっきりしていない例が多い。この中でB35号墳とA37号墳は最近発掘され、B35号墳は小型横穴式石室古墳であった。
A37号墳はふつうの横穴式石室古墳で、より下方に分布するⅠ類の横穴式石室古墳の群に属し、そのうちでは最高所に位置していることがわかった。
下半の一七基のほとんどが規模・内容ともに判然としないので、これらを除いて、上半の一九基のみについて整理してみよう。小型横穴式石室としての一応の基準である、石室の全長三メートル未満、幅一・一メートル未満に該当するのは、一九基のうち二基しかなく、石室の全長四・五メートルほどのふつうの横穴式石室古墳に準ずるのが六基ある。
これは小型横穴式石室古墳が大多数をしめる他の古墳群との大きな違いである。その理由については今後検討してみなければならない。ただ、自然条件としては、この尾根に露出している岩石が、平井の燈明山などにくらべて大きいことを指摘しておこう。
くわしい構造のわかるのは、上半でも下端の一基にすぎないが、先の基準をやや上まわっている点のみられることを除けば、形体上は小型横穴式石室古墳である。このような規模の小型石室と、ふつうの規模の横穴式石室との違いが、時間的な差であるのか、それとも同時につくられて、築造者の階層差をしめしているのかは決定しがたい。
この群にみられるもっとも重要な点は、小型横穴式石室にも規模に差があり、小型ながらも、やや大型な石室の一群を形成していることである。この小型石室の間にみられる規模の差が階層差であるのか時期差であるのか。この群が長尾山の小型横穴式石室の内容について大きな鍵をにぎっていることは疑う余地はない。
この群の上半は、等高線に平行して三基または四基がならび、六段になっている。非常に整然としており、そこに墓地の形成にあたっての規制の厳しさがあらわれている。あまりにも小型で軽視されがちな小型横穴式石室に対して、このように厳しい共同体の規制がみられることは、それまで古墳を築造してきた階層よりさらに社会的に低い地位の階層にまで統制的な身分秩序が貫徹してきたことにほかならないであろう。
⑤雲雀山東古墳群
この古墳群は、西群のすぐ東の尾根上の平坦部から、万籟山の山脚部までに分布している。平坦部の群は、さらに上下に二分でき、またその北のゴルフ場には、ふつうの規模の横穴式石室古墳がふくまれている。
上からみていくと、ゴルフ場内の古墳は、昭和三十五年(一九六〇)にゴルフ場建設工事による破壊にさきだって、八基の古墳が調査され、今日わずかながらもそのようすを知ることができる。いずれもふつうの横穴式石室古墳で、いまも場内の休憩所の横に保存されているA7号墳とほぼひとしいものであった。
上半にあたるゴルフ場外のA群は、宅地開発計画による造成工事に先立つ発掘調査が行なわれた。調査の結果はつぎのとおりである。
七基のうちに、ふつうの横穴式石室が一基(A9号墳)、きわめて小型の箱式棺一基(A13号墳)をふくみ、のこりの五基が小型横穴式石室である。
標高一四六メートル付近にあたる貯水槽に近い尾根上の、東西五〇メートル、南北七〇メートルの範囲で、南に六基、北にA9号墳一基がはなれて分布している。この群は大小混在しているが、一基はなれて北にあるふつうの横穴式石室古墳は、むしろゴルフ場内の消滅した北のグループに入れるべきであろう。北のグループと南の六基からなるグループとは、それぞれ別の群を形成すると考えられるか、今ではそれさえ確認できない。
下半のB群は、昭和三十四年(一九五九)に発掘調査が行われ、一群が完掘されたという意味できわめて貴重なグループである。宅地化されて、まったく消滅し、今日見ることはできなくなった。標高一〇七メートル付近で、南北四〇メートル、東西六〇メートルの範囲内に分布していた。そのうちB12号墳が一基だけはなれているほかは、それぞれほぼ等高線にそって横にならび、六段からなっていた。B1~B4号墳のように、同じ規模の古墳が一列にならぶ例と、B6・B10・B11号墳のように、同じ規模の古墳がならぶ周囲に、より小型の横穴式石室古墳が集まっている例との二つにわかれそうである。さらにB13・B14号墳、B22・B23号墳のように箱式棺が対をなしているのがある。
長尾山の小型横穴式石室を通観しての分類によれば、この群では、石室の長さ四・五メートル以上の古墳がないこと、長さ一・八メートル未満の石室群と、長さ一・八~三・〇メートルの石室群との境界がはっきり分れることに注目できる。また遺物としては、土師器・須恵器・刀子に、木棺に使用したとみられる鉄釘が伴出している。須恵器は七世紀前半のものと考えられる。
このグループの時期については、山麓部のC群が六世紀後半にあたる須恵器を出していること、のちに述べる平井窯跡が七世紀後半にあたり、さらに勅使川窯跡が七〇〇年前後のころにあたることなどを総合すれば、この種の小型横穴式石室古墳が長尾山で盛んにつくられた時期をおおよそ知ることができる。今日までのところ、七世紀前半という年代が与えられており、それと矛盾するような遺物は発見されていない。しかし、遺物の検出されない例が非常に多く、それらの古墳すべてをまとめて七世紀前半とするには、資料的にやはり不十分である。
以上、五つの古墳群について、小型横穴式石室古墳のありかたを中心にみてきた。なお、東方の雲雀丘古墳群では小型横穴式石室古墳は知られていない。しかし予備知識がなければ見落すことが多いので、宅地化が全面的に進行しているにもかかわらず、皆無であるというのは疑問であり、今後の精査が必要であろう。