石室の規模について、総合的にまとめてみよう。石室の全長および幅をまとめることのできたのが一三三基、石室の高さを知ることのできたのが三二基である(表8)。
石室の長さについては、玄室と羨道は区別しないことにする。発掘調査をした例では、全長二・二メートルにすぎない場合でも玄室と羨道を区別しているが、玄室の長さ一・三メートル、羨道の長さ〇・九メートルでは、実際に木棺をおさめる場合には、不要な区別といえるからである。
石室の長さ一・八メートル弱で分布がわかれる。これ以下は、実用的には木棺をおさめるのに長さが足りない。なにか別の葬り方、たとえば遺骸を直接にとか、布に巻くとかして石室の中に安置する。すなわち石室としてではなく、石棺として用いたものであろう。平井B38号墳、雲雀山東A13号墳、B22・23号墳のような箱式石棺もこのグループに入る。したがって石室の幅も〇・五メートル以下が二一基中七基をしめる。平井A34号墳は、幅一メートルであるが、両側壁のみが遺存しているものなので、石室の長さは不完全な数値とみてよい。
石室の全長一・八~四・五メートル弱の例は多く、一〇一基がこれに入る。石室の幅もほぼ〇・五~一・一メートルとなり、高さも〇・五メートル以上一・〇メートル未満となり、木棺をおさめるのに無理はなくなる。こまかくみると、全長三・〇メートル弱を境に分れるようである。
すなわち石室の全長一・八~三・〇メートルでは、石室の幅も、木棺を一方に寄せておさめると、周囲に副葬品を配置する余地がわずかにあるという規模になる。石室の奥に木棺をおさめて羨門側に副葬品をおく場合と、玄室の空間におく場合がある。一つの木棺をおさめたあとに余地はなく、そのままで追葬することは不可能に近い。
石室の全長、三・〇~四・五メートルでも、石室の幅一・一メートル以下は四五基のうち三九基である。石室の幅一・五メートルが一基ある。山本奥古墳群のD3号墳で、封土の流出がはげしく、もとの形のはっきりしない古墳で、石室に全長はさらにのびると考えられる。この古墳以外については、木棺を左右にならべることは困難といえる。
石室の全長四・五メートル以上のものは、幅の下限が〇・七メートルでそれも一一基中一基にすぎない。一一基のうちわけは、山本奥古墳群で一基、平井古墳群A群で一基、B群で一基、雲雀山西A群で六基、雲雀山東B群で二基にすぎず、それぞれ各群の中心的存在である。このクラスの古墳が多数みられることからも雲雀山西A群は、他と性格を異にしている。また、山本奥古墳群も、分布状態が他の古墳群と異なるので、一律に比較はできない。
石室の幅については、〇・七メートルと一・〇メートルを中心とする二つの山がみられ、中間の〇・八メートル付近で落ちこんでいる。木棺をおさめるのに不足といえるのは、幅〇・五メートル未満の八基である。幅〇・五~〇・八メートルは六四基で、これは木棺の幅にやっと足る。木棺をおさめても、ゆとりのあるのは幅〇・八~一・一メートルで、五〇基となり、前のグループとあわせて一〇四基となる。石室の幅一・一メートル以上はわずか一一基にすぎない。
追葬または複葬で二棺を並行しておくなら、どうしても幅一・五メートルは必要であろうが、それだけ幅のあるのは二基だけである。同様にたてに二棺をおけば、どうしても全長三・八メートル以上は必要であろう。それに相当するのは二八基ある。
要するにいままでみてきた長尾山丘陵の小型横穴式石室古墳群の中心をなすのは、木棺一つをおさめるのがやっと、あるいはわずかにゆとりがある程度の石室であった。