小型横穴式石室古墳の構造

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小型横穴式石室古墳の構築状態についてみておこう。すでに発掘調査の行なわれた雲雀山東B群二三基と、東A群七基、同じく西A群一基、および平井B群の下端にある四基を中心に、他はもっぱら外形観察によって考えてみたい。
 墳丘はきわめて小型の石室、または箱式石棺を主体とするものをのぞいて、いちおう存在したようである。しかし現在、墳丘が存在しないか、またはそれに近いものは、雲雀山東古墳群で三〇基のうち二〇基あり、平井古墳群では九三基のうち二七基におよぶ。
 築造後に封土の流出したものが多いと思われるが、元来、封土の量がさして多くないためである。墳丘の表面に列石をおく例が雲雀山東B群で六基、A群で三基ある。列石については平井古墳群でも考えねばならない。
 石室についてみると、平井古墳群の中に、墳丘にみえるくぼみから二石室かと思われるものが四基ある。その他は一墳一石室であろう。発掘された古墳の中には、一墳二石室というものはない。平井B9号墳は比較的はっきり二石室であることがわかる例である。はじめから二石室であったのか、あとから追加されたのかは、外観のみでは判断できず、将来の調査にまつ。
 小型横穴式石室では、壁の石組みは二段ないし三段で、平積みと小口積みを併用している。多くは石室の床面に接する基底石を平積みにし、もっとも面の広い部分を石室の内側にむけている。下から一段目が壁を構成する中心で、その上に小口面を室内にむけて積んでいる部分は、高さをそろえるために調整を加えた個所である。
 奥壁に比較的大きな石を用い、平坦面を室内にむけ、一枚石ですませている。一枚で不足すれば、幅・高さを整えるために、適当な石材で補っている。現実には一枚のみで仕上っている例はすくないが、原則として一枚で構成するもののようである。この点についてはふつうの横穴式石室の奥壁下半部とも共通する。
 壁の裏側をみると、壁石に接して、人頭大の円礫や山石を積んでいる例がある(雲雀山東A11号墳など)。いわゆる裏込め、または控積(ひかえづ)みであるが、粗雑な感はまぬがれない。むしろ石室構築の際の掘り込みに、石材をすえたあと、土とまぜて投げ込んだという程度のものである。

写真86 雲雀山東A11号墳の裏込めの石


写真87 雲雀山東A16号墳の奥壁と閉塞石


 雲雀山東B群で天井石のあったのはおよそ半数で、他は失われたのか、はじめからなかったのか明らかでない。平井古墳群では相当数、天井石はのこっている。また石室の内部におちこんでいるものも多い。この群にみるかぎり、天井石ははじめからなかったとしなければならない古墳は少ないと考えられる。天井石にかえて木材などを使用したかとの説は、しきりにいかれているが、今日まで全国的にも木材を用いた例はたしかめられていず、石室本来の目的である埋葬空間の永久的確保を考えると、石以外のものを使用したとするには、有力な証拠を必要とする。
 石室の床には、棺台、敷石、排水溝などの施設がみられる。
 棺台は、床面の上に平石をおき、その上に木棺を安置するようにしたもので、雲雀山東古墳群では、A11号墳のように四個の石を長さ一・二メートル、幅〇・六メートルの四隅に配したもの、B13号墳では箱式棺の床面に二個の石をおいたものなどがある。
 敷石は、部分的なものと全面にみられるものとがある。角礫をならべたもので、いちおう上面はそろえてあるが、粗雑で、ていねいとはいえない。注意をひくのは、小型横穴式石室で木棺一つをおさめるのにゆとりのない場合でも、平井B48号墳のように、敷石で、玄室相当部と羨道相当部を区別している例のみられることである。
 なお一部ではあるが、排水溝を床面に掘りこんでいる例がみられる。小型横穴式石室古墳として、数の多いクラスのもので、副葬品などが豊富であるというものでもない。このような石室に、ふつうの横穴式石室と同様な設備をもうけている点が注意をひく。
 羨門の閉塞部分は、奥壁と異なって、小さな石材を乱雑につめている例が多い。小型横穴式石室で、一見竪穴式石室とみまがうばかりの例であっても、この奥壁と閉塞部分の構造の差から区別できる。中には石と土を混用している例もある。なお、閉塞石は石室の左右側壁の完成後、おそらく埋葬の完了後に羨門内部につめたものであろう。あるいは、閉塞部をふくむ四壁をつくり、遺骸をおさめたのちに、天井石をおいたと考えることもできるかもしれない。しかしこれは将来の検討をまつべきである。