陶棺片を採取

301 ~ 303 / 532ページ
平井古墳群の東西両群から須恵質の陶棺片が採集されている。家形陶棺の一部と思われる。いずれも石室におさまっていたのではなく、墳丘外に散乱していた。したがって、もと、どの古墳におさめられていたのかはわからない。
 この形式の陶棺は、七世紀前半に備前・美作(みまさか)で盛行した。県内では、播磨、それも市川以西に比較的多く発見されている。これらの陶棺は、巨石古墳や前方後円墳にはみられず、比較的小さな横穴式石室におさめられている。そこで吉備の陶棺は古墳被葬者のなかでは中流以下の人びとに用いられたのであろうといわれている。おさめている横穴式石室も、その陶棺を収容するのがやっとという規模の例も少なくない。
 ところがその陶棺が西摂地方、すなわち豊中市の千里丘陵から、西の芦屋市さらに三田市にかけて発見されており、その分布の中心は豊中市にある。豊中市市街の北、箕面市との境に近いたこ塚古墳を中心として、野畑春日町にも新免宮山古墳群にも分布する。
 『豊中市史』によると、たこ塚古墳群の岸本塚古墳より大小四個の陶棺、金塚古墳より一個の陶棺、他にはやくから知られていた一個とあわせて六個、宮山古墳群の宮山北塚古墳より小型の陶棺一個が出土している。また最近、池田市茶臼山古墳の南東にあたる同じ尾根の南斜面から横穴式石室古墳が発見され、その内に家形陶棺一個がおさめられていた。西方では芦屋市の八十塚A号墳から家形陶棺が出土している。
 なお、三田市東山で、横穴式石室内から家形陶棺を発掘した報告もある。
 これらの陶棺を出す古墳は、豊中市では桜井谷窯跡群や上野窯跡群に、三田市では末窯跡群に近い。
 千里丘陵の窯は、豊中市内で確認されているだけで二六基ある。六世紀後半を中心に稼動(かどう)していたが、一部の窯跡で円面硯の獣脚を出土しており、また一部の窯跡から発見された瓦は須恵質で、付近の新免廃寺の瓦と一致することからも、七世紀以降になっても、生産がつづいていたことがわかる。七世紀前半に盛んとなる須恵質陶棺の製作地でもあった。
 三田市の末窯跡群は、生産時期の中心を八世紀以降とみるのが妥当なようで、東末の陶棺は他からの移入品となる。それが、千里丘陵の窯から運ばれたものか、西方の播磨からもたらされたのかは、今後の調査にゆだねなければならない。
 このようにみれば、阪神間に出土する須恵質陶棺の製作地として、千里丘陵一帯に営まれた須恵窯を有力な候補地といえよう。