これまで述べてきた小型横穴式石室古墳については、いまなお評価は定まっていない。いちおう古墳時代終末期における横穴式石室古墳の一形態であるといわれているが、残された問題は多い。
七世紀のはじめになると、畿内の中心では横穴式石室古墳がきわめて内部形態の整美されたものとなり、その一形式として横口式石棺または横口式石槨(せっかく)と称される古墳が発達する(図75)。その代表的なものの一つが高松塚古墳で、七世紀末から八世紀はじめにかけてのある時点に築造されたものである。
そのような古墳と小型横穴式石室古墳の共通するところは「石室面積がいたって小なる」点だけであって、その他はあまりにも隔絶している。ピラミッドの頂き付近と底辺との差にもたとえられよう。七世紀のはじめごろにともに出現するというだけで、同じ理由によって発生したとするには無理がある。
終末期古墳にみられる規模の縮小を「大化薄葬令」で説明しようとする試みがよくある。この法令が上からの新たな規制であるとするにせよ、またすでに古墳の変化としてあらわれていた傾向を追認したものであるにせよ、畿内中央部の官人層の墓にこそ通用しても、ここにそのまま適用できないだろう。
畿内中央部の横口式石棺あるいは横口式石槨の形態は、単に石室の面積を縮少したものでなく、その変化に応じて石室の構造をも変え、木棺一個をおさめる大きさの非常に整美された石室にしている。二棺をおさめる場合には、奈良県の牽牛子塚(けごしづか)古墳のように二石室をつくるなどの方法を用いている。そこにはおのずから変化させようといううごきがあり、たとえ法による規制でも、一定の方向性がある。
これに反して小型横穴式石室古墳の石室は、規模を縮少して機能に変化が生じる程度に至っても、あくまで横穴式石室の形態を墨守している。平井B48号墳はその典型的な例である。閉塞石を備えている例が多いことは、実際には竪穴式石室と同じような埋葬しかできないのに、それを認めようとしないかたくなな姿勢であるといえる。七世紀前半に、小さな石室をもつ古墳が、長尾山系の南斜面で多数出現する理由は、畿内中央部の政治的法制的な統制強化と関係あるにしても、その形態に横穴式石室をかたくなに守る点については、地域的な形態変化とするのが妥当であろう。
たとえば播磨の揖保(いぼ)川流域で、横穴式石室は、方形玄室―長方形袖付き石室―長方形無袖石室―小型横穴式石室という変化をたどれる。長尾山では山麓部のⅠ類のグループと尾根上のⅡ類のグループを結びつける中間形態はまだ発見されていない。そのために横穴式石室の変化を逐次追跡していくことができない。雲雀山東A群にふつうの横穴式石室古墳が混在すると思われること、同じく西A群が石室の規模でやや大きく、きわめて小型のグループを完全に欠いていることから、これらをもって中間形態とすることが可能なのかもしれない。しかし、いまは確証がない。