ふつうの横穴式石室古墳は、その石室の内容から追葬・複葬を原則とした家族墓である。しかし、その築造のためにはかなりの労働力を必要としたであろう。その負担が、七世紀はじめごろに、そのような古墳の築造をすたれさせていく一因ともなったであろうし、また、当面の需要をみたすだけつくられたということなのかもしれない。
ところが、七世紀前半以降につくられる小型横穴式石室古墳は、棺をおさめる石室はきわめてせまく、それをおおう墳丘もまた小さい。そこで、このような古墳の営造に要する労働力、資材は比較的容易にえられたであろう。すなわち、この小型石室古墳の築造者たちは、それまでの横穴式石室古墳をつくることのできなかった階層の一部が、生産力向上による経済的社会的な地位の上昇により、このような小規模なものではあるが、ややおくれて古墳を築造できるようになったのであろう。
そのような階層であればこそ、完全な自立は困難で、新しい形態の墳墓をつくることもできず、前代の古墳の形を踏襲(とうしゅう)したのではなかろうか。また、その墳墓の占地も、平井古墳群の例にみるように、きわめて限定された範囲内に密集する形態をとるのも、共同体あるいは、かれらの所属する集団の強い規制のもとにあったことを示すのであろう。
すでに大化薄葬令前後という時代にあり、また、より上層の人びとは、古墳への追葬から、次第に火葬墓へのあゆみをはじめていた。