未調査の平井窯跡

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五世紀後半から須恵器の製作をはじめる千里山丘陵の窯業生産地は、その北西部、豊中市内の桜井谷・上野、熊野田窯跡群を中心に、九世紀にいたるまで稼動している。長尾山の各古墳で副葬されている個々の須恵器について確認されているわけではないが、その製作地としてもっとも可能性の高いのはこれらの窯跡群であり、とくに七世紀前半の須恵質陶棺については、こことの関係を否定することはできないだろう。
 このような大規模な窯業地をひかえて、長尾山丘陵でも、二カ所の窯跡が知られている。一つは七世紀なかばに稼動していた平井窯跡であり、もう一つは、それよりややおくれて稼動する勅使川窯跡である。
 平井窯跡は、平井三丁目にあり、雲雀丘学園のグラウンドの北方、低い丘陵の東斜面に、その窯本体の断面と灰原の一部が姿をみせている。この窯はふるく大正四年に笠井新也によって報告されているもので、二基あったと報じているが、今日は一基しかない(図76)。

図76 平井窯跡の土器『考古学雑誌』5巻9号より


 ちょうど雲雀山西B群の分布範囲にふくまれるが、B群の古墳は六世紀後半と考えられ、尾根上のA群が七世紀前半と考えられ、この窯はわずかな出土品から七世紀なかばに比定されている。このように古墳の築造後に須恵器がここで製作されているのは、他の遺跡を考えるべきなのであろうか。
 なお、この窯跡の北約百メートルのA37号墳の直下で、小片ながら窯壁が採取されている。第二の窯があるのかもしれない。
 小型横穴式石室古墳をつくった人びとと、この窯との関係は、まだ明らかにできない。しかし、同じころに長尾山丘陵を利用していた両者の間にまったくかかわりがなかったとはいえまい。