昭和六年三月、米谷にある片岡邸内の山麓で、工事中に大きな石櫃が掘り出され、その中から金銅製のまるい容器がみつかった。山麓の傾斜面を掘り込んで、約二メートル四方を平らにならし、四個の大形の石をならべて基礎石とし、その上に石櫃を置いて、まわりに塊石を積みあげて囲ってあったという。その側から和同開珎六枚を入れた把手つきの平瓶と、素焼の土器が二個検出されたともいう。
石櫃は凝灰岩製で蓋と身からなる。蓋は、一辺七五センチ、高さ四五センチほどで、周縁をのこして掘りくぼめ、身は一辺八〇センチ、高さ五〇センチほどで、周縁の部分をけずり、両者を印籠蓋(いんろうぶた)ふうに重ねるようになっている。それぞれ中央を半球形にくりこみ、その中に金銅製の蔵骨器が納められていた。
蔵骨器は、表面の一部に鍍金を残しており、蓋と身からなり、槌起(ついき)で薄く均等な厚さに仕上げられている。蓋の径二四センチメートル、身の径二四センチメートルで、両者を重ねた高さは一九・七センチメートルである。
蔵骨器の器形や、和同銭を入れた平瓶の存在からみて、これらが奈良時代の遺品であることはまちがいない。これは、長尾山麓で他地域よりもおそくまでつくられていた古墳も、ついにこの時期にはつくられなくなったことを証するものであろう。
あれほど盛行した群集墳の築造も、全国的には七世紀のはじめごろから急激にみられなくなる。その理由として、かつてはいわゆる大化薄葬令とこれを直接にむすびつける説もみられた。しかし、いまは薄葬令よりもはるかに早く、古墳の築造がやめられはじめたことが明らかになっている。その理由の一つは、古墳の築造を権力の象徴の一つにしてきた豪族や首長たちが、それに代わるものを、中国からの文化に見い出したためであろう。仏教の輸入による造寺造塔の風習が、次第に古墳の築造にも代わっていったこともあろう。しかし、より重要なことは、律令体制の中に組み入れられていく過程で、死者との結びつきを示す墳墓から、生前の日々の活動により重きがおかれるようになったのではなかろうか。
また仏教の輸入にともなって、火葬という新しい葬法もはじまった。これから、やがて持統天皇の例にみるように、火葬したのちの骨灰のみを容器におさめ、従来の横穴式石室古墳に追葬したり、米谷の例のように、蔵骨器そのものを別に埋納するようになる。