『姓氏録』と摂津国の諸氏族

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すでに摂津国に居住・生活していた猪名県主や大河内氏などについては、その性質をみてきたのであるが、これらの氏族以外にもこの国に居住・生活していた氏族は多くあった。ここでは、これらの諸氏族について『姓氏録』を使用しながら紹介していくことにする。
 すでにしるしたように『姓氏録』は弘仁六年(八一五)に作成された一種の氏族台帳ともいえるものであり、諸氏族をその出自によって分類し、天皇家からわかれたと称する皇別、天皇家の祖先の神またはそれ以外の神の子孫と称する神別、そして渡来系氏族である諸蕃の三つに大別してしるしている。そして、それぞれの氏族の祖先や伝承などがしるされているが、畿内の五カ国(山城・大和・河内・摂津・和泉)だけに限られている。ただ、当面の問題である宝塚地方はそのなかに含まれているので、この地方の居住氏族を調べていくにはつごうがよいといえよう。以下『姓氏録』を中心に、『古事記』・『日本書紀』などにみえる記事を参照しながら、紹介していくことにするが、その前に、摂津国の氏族について全般的なことをしるしておこう。
 『姓氏録』にみえる摂津国関係の氏族は、皇別の氏族として三〇氏(天武天皇の時設置された「八色の姓(やくさのかばね)」の一つである真人という姓を持つ氏族として為奈氏以下三〇の氏族がしるされている)、神別の氏族として四五氏、諸蕃の氏族として二九氏がしるされている。また未定雑姓といって、その出自が以上の三つのどれともはっきり区別できない氏族としてしるしている項目があり、そのうちに一四氏の氏族があげられているから、合計一一八氏の氏族がしるされていることになる。これらすべてを、姓によって分類すると表9のようである。
 

表9 『新撰姓氏録』にみえる摂津国氏族

皇別神別諸蕃未定雑姓備考
公(君)川原,榛原,山辺,車持,佐々貴山,鴨600牟佐呉17
坂本,阿支奈,井伏,道守4田々内1005
豊島1中臣,神奴,中臣藍,中臣大田,阿刀,物部韓国,小山,多米,委文,服部,六人部,石作,土師,大和,凡海,阿曇犬養16船,広井,三宅3椋椅部121
0山,物忌21津嶋,葛城25
韓矢田部1矢田部1三野,日置,豊津,荒々406
布敷,津門,物部,羽束,松津5生田,佐夜部,刑部3為奈部,牟古,原3韓海部,日下部,為奈部,嶋,山,住道617
00大原,竺志,林,桑原404
村主00101
真人為奈10001
朝臣高橋,雀部2津島,椋垣,荒城3005
宿禰日下部,依羅2若湯坐,巫部,額田部,津守4006
忌寸0凡河内,凡河内2石占,檜前,秦,志賀406凡河内忌寸出自のちがいにより重出している
神人一神直とするものあり
その他久々智,坂合部,伊我水取,吉志,三宅人,和邇部,物部,山守8犬養,目色部真時,竹原,額田部,蝮部,津守,日下部,国造,羽束,鴨部祝,我孫,神人13蔵人,葦屋漢人,秦人,高安漢人,韓人,史戸,温義,村主,勝9下神,我孫,阿刀部,川内漢人434
30452914118

 
 これによると、天武十三年(六八四)に制定された八色の姓である真人・朝臣・宿禰・忌寸の四姓がみえるが、全体としてその数はわずかであり、多くの氏族はそれ以前からの姓を帯びている。したがってかなり古い時代からこの地方に居住していることがわかる。もっとも、摂津国の氏族のうちでもっとも多い姓である連姓は、臣姓とともに八色の姓制定以後も残ってはいるが、新制度のもとではほとんどこの姓を与えることはなかったと思われるから、『姓氏録』にみえるこれらの姓は八色の姓以前のものと考えてほぼまちがいないと思う。したがって『姓氏録』は氏族の現状を記録したのではなくて、その出自を明らかにすることを目的としたことがわかる。今、八色の姓以前の姓についてみると、氏族の多少の順は連(むらじ)・首(おびと)・公(きみ)・造(みやつこ)・臣(おみ)・直・史(ふひと)・村主(すぐり)となる。
 姓のうちでもっとも多い連姓は、臣姓とともに中央において天皇に近侍し、朝廷の政治に早くから参加した有力な氏族の姓であった。これらの姓をもつ氏族は、およそその祖先の出自によって区別されたらしく、『姓氏録』によってみてもわかるように、皇別の氏族に臣姓が多いのに対して、連姓は神別の氏族に多く、また連姓の氏族が摂津国に多いのは、すでにみてきた氏姓制度下の大和朝廷の支配の特徴を示しているように思う。というのは氏姓制度下においては、臣姓の氏族が皇室と密接な関係にあって、皇室とともに連合政権を構成していたのであるが、連姓の氏族らは、多く伴造(とものみやつこ)といって、皇室の私有する諸種の職業部民を管理しながら大和朝廷に仕えたといわれている。とすれば、連姓の氏族がこの地方に多いのは、大和朝廷がこの地方に進出したとき、この地方の管理支配をこれら氏族に行わせることがあったことをしめすものといえよう。
 つぎに多くみえる首姓の氏族は、これにつぐ造姓の氏族とともに、五世紀末ごろの大和朝廷の政治組織の変化によって発生したと考えられており、すでに述べた連姓の氏族が伴造として部民を統率したのとよく似ているが、多少の時代的ずれがあり、連姓の氏族の方が古いと考えられる。首姓を帯びる氏族の多くは造姓の氏族に統率され、朝廷の品部(しなべ)や名代(なしろ)・子代(こしろ)などの部民を管理する伴(とも)の長であり、だいたいにおいて地方村落の首長であり、地方に居住して、その地方の部民を統轄する、いわゆる地方的伴造である。そのことは、『姓氏録』にみえる首姓の氏族の氏名に、摂津国の地名を帯びる場合が多いことからも推察されよう。造姓を帯びる氏族にもまた同じことがいえる。
 以上のように摂津国の氏族のうち、姓を通してその分布の多い二、三の氏族の性格をみてきたのであるが、これらの姓を帯びる氏族の出自についてみると、皇別・神別・諸蕃の三つの分類にそれぞれ分布していることがわかる。それはすでに述べたように、これらの姓がいずれも地方の支配機構に置かれ、それぞれの役割によって地方の管理支配を朝廷からまかされていた氏族の姓だからだといえよう。とくに、出自によって区別され、神別に顕著である連姓の氏族が、『姓氏録』をみる限りこの地方においては、多少ではあるが、皇別や諸蕃にも分布しているのは、この姓を帯びる氏族が、はじめは明確に出自によって区別されていたはずなのに、地方における管理支配としての職掌的意味が濃くなって、他の出身である氏族でも地方の管理支配者となり得たしるしとして、この姓を帯びるようになったと考えられないであろうか。その意味で、連も造も首も、地方を管理支配することによって朝廷に仕えた氏族の姓、つまり称号といえよう。
 『姓氏録』によると、摂津国には渡来系氏族が比較的多いこともみのがせない。ふつう『姓氏録』では渡来系氏族は諸蕃に分類されるが、この諸蕃の出身の氏族にも、皇別や神別を称する氏族がある。また、諸蕃は中国の漢(あや)氏系や朝鮮の百済(くだら)・新羅・任那(みまな)・高麗(こま)などの系統に分類されているが、摂津の渡来系氏族としては中国の漢氏系がいちばん多く、朝鮮の百済系がそのつぎとなっている。のちにもしるすことであるが、摂津国は難波津や武庫津を持ち、大和朝廷にとって大陸や半島との外交の面で重要な位置を占めていた。そのことが、このような渡来系氏族を多くこの地方に定着させることになったのであろう。
 いままで『姓氏録』によって、摂津国の氏族全般の性質などを述べてきたのであるが、これらの氏族すべてがこの地方に定着していたわけではない。いったん定着していても、何らかの理由で本籍を他に移す場合もあった。いま、そうしたなかで、川辺郡や武庫郡あるいは有馬郡などに生活していて、宝塚地方に関係があると思われる氏族について、比較的に材料もあり、その氏族の性質などが知られるものを取りあげて紹介してみよう。