為奈真人

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まず為奈真人であるが、これについてすでに猪名県主との関係について述べたので、むしろ同じ皇別にしるされている、川原公(かわはらのきみ)や椎田君(しいだのきみ)との関係について述べてみよう。為奈真人は偉那・猪名・韋那とも書き、天武十三年(六八四)十月の八色の姓制定のときに真人の姓を与えられた氏族である。それ以前は公(君)姓であり、おそらく川辺郡猪名郷あたりに居住していたと思われる。『姓氏録』をみると、この氏族は、摂津国皇別の項と右京皇別の項とにしるされているが、おそらく、一族のなかで有力なものが、この地方から京に居住地を移したようである。
 この氏族については、『古事記』や『日本書紀』にもみえるが、それぞれ少しずつ伝承を異にしているので、その点を比較してみよう。
 まず『姓氏録』摂津国皇別の項によると、為奈真人は宣化天皇の皇子火焔(ほのほ)王の子孫であって、日本書紀の記載もこれと一致するとみえるが、その『日本書紀』では、韋那君について上殖葉(かみえは)皇子の子孫としるされ、火焔皇子の子孫は椎田君となっている。この点は『古事記』も同じで、宣化天皇のところで、「この天皇……川内若子比賣(かわちのわくこのひめ)を娶りて生む御子は、火穂(ほのほ)王、次に恵波(えは)王……火穂王は志比陀君の祖、恵波王は韋那君、多治比君の祖なり」とみえて、恵波王(上殖葉皇子)の子孫に韋那君・多治比君をあげ、火穂王(火焔王)の子孫は志比陀(椎田)君としるしている。ただ記・紀の伝承でちがうのは、恵波王の母が『古事記』では大河内稚子媛(わくこのひめ)とするのに、『日本書紀』は皇后の橘仲(たちばなのなかつ)皇女となっていることである。このように三つの史料で一致している点は、宣化天皇の子孫であるということだけである。しかし、為奈君が川辺郡から起こったと考えられるなら、その母は、すでに述べたように、この地方一帯に勢力を持ち、国造氏としての地位を保っていた凡河内氏の女性とみる推測ができないわけではない。とすると『古事記』の伝承がほんらいのものであったのではなかろうか。