ただ、そう考えるとき『日本書紀』や『姓氏録』にいうような伝承がどうして成立したかが問題となろう。この点で関係してくるのが椎田君と川原公である。椎田君については、記・紀にしるされていたように、火焔皇子の子孫とみえるのであるが、この氏族は『姓氏録』にはみえない。『姓氏録』では川原公がしるされていて、「為奈真人同祖。火焔親王の後なり。天智(てんじ)天皇の御世に居に依りて川原公の姓を賜う。日本紀に漏る」とみえる。この氏族は為奈君と同じく火焔王の子孫としるされていて、椎田君がのちに川原公になったのではないかという考えもあるが、しかしこの二つの氏族はやはり別の氏族とみた方がよいと思う。では、これらの史料にみえるくいちがいはどう説明すべきであろうか。一つの憶測としてつぎのような考えはできないだろうか。
椎田君はその居住地が今の尼崎市椎堂あたりといわれ、川原公は川辺郡川原、今の伊丹市の東北にある下河原から北河原の地域に居住していたと考えられている。この考えが正しいとすれば為奈・川原・椎田の諸氏は居住地が隣接していたことになり、彼らのあいだにはかなり深い接触や交流がおこなわれていたであろう。そうしたことが祖先の伝承についてかなりの混同を生じ、ついには同一の祖先とする伝承が生まれていったのではなかろうか。このような現象はこの氏族に限っているのではなく、他の諸氏族についてもありがちなことである。
すでに述べたように為奈君の有力なものが中央政府に仕えるようになり、本籍も右京に移すようになったが、彼らは中央政界では中級の貴族としての地位にとどまるものであった。
一般的に、このような貴族は上級貴族のように国家からの経済的な保証はじゅうぶんでなく、また昇進も限られていたから、おのずと自分の出身地に経済的な支えを求めようとした。それだけに氏族間の団結もかなり強いまとまりをみせる状態にあったのである。この点を考えると、為奈君たちの場合も川辺郡に居住している同族との結びつきは強く、さらにたがいに隣接し合う椎田君や川原公との結束も強かったのであろう。その影響もあって祖先を同一の人物とする伝承を生んでいったのではないか。
為奈君、のちの為奈真人について、歴史上に姿を現わすのは十数名いるが、それらを調べていくと、彼らはだいたい中級の貴族にとどまっている。また、彼らは役人としてその生涯を終えた人びとであり、本籍は京に移しているものである。
川辺郡に居住していたと思われる為奈氏はほとんど歴史上には姿をみせないことなどに興味が向けられる。しかし、このことは為奈氏がもはや川辺郡に居住しなくなったのではなく、むしろすでに述べたような理由と考えられ、本籍が京に移っている為奈氏と摂津の為奈氏との結びつきは、のちのちまで強かったことをしめしているのではなかろうか。九世紀になってもなお川辺郡に本籍をもつ為奈氏がいたことは、『三代実録』の貞観五年(八六三)十月に、川辺郡に本籍を持つ正六位上の為奈真人管雄ら五人の戸が課役(かえき)(調庸(ちょうよう)および雑徭(ぞうよう))を免除されている記事があることからも知られるのである。
一方、椎田君や川原公はどうであっただろう。椎田君を名のる人びとの動きは残念ながら知られないが、川原公は多少歴史上に現われてくる。この氏族はだいたい川辺郡に居住する在地の貴族として勢力をもっていたらしいが、その実状はかならずしもはっきりしない。『三代実録』の貞観五年十月の条に、為奈真人管雄と同じく、川辺郡の人である川原公清水、同清宗、同清貞、同清方の四名の戸が課役を免除されたとある。また同書の元慶四年(八八〇)十月の条にも、川辺郡に居住する川原公福貞、福継、夏吉、有利の名の戸と、有馬郡の川原公于被の戸が課役を免除されたとしるされている。
こうした記事をみるとき、川原公は九世紀に入ってもひろく川辺郡から有馬郡にまで居住していたことが知られ、この地方一帯に根づよい勢力をもっていた氏族であることがうかがえるのである。