つぎに神別の氏族のうち、この地方と関係のある氏族を二、三あげてみよう。
『姓氏録』の摂津国神別に神人(みわひと)氏がみえ、「大国主命の四世の孫、大田田根子命(おおたたねこのみこと)の後なり」としるし、ついでもう一度神人氏をあげて「上に同じ」としるしている。後の神人は『姓氏録』の別の系統の本には神直としるすものもあるが、どちらが正しいかはっきりしない。しかし、どちらにしても『姓氏録』が重ねてしるしていることは、摂津国内に居住地を異にして同族が存在していたことをしめしているのかも知れない。
この氏族は、主として川辺郡大神(おおむち)郷(宝塚市の東北部に接する地域)すなわち川西市多田の一帯を居住地としていたと考えられるが、この氏族はまた祖先を同じにする三輪君、のちの大神(おおみわ)朝臣と関係があるのではなかろうか。神人は朝臣とか連といった身分をしめす姓がない。このことは当時の地方社会のなかで神人がかならずしも大きな勢力をもっていなかったことを物語るのである。しかし、『続日本紀』の延暦四年(七八五)正月二十七日の条によると、能勢郡の大領(郡司の長官)である神人為奈麻呂が、能勢郡内をよく統治し、農民の生活にも深い配慮をしたという功績で、外正六位上から外従五位下に昇進したとある。
のちにくわしくしるすけれども、律令制の変遷にともなって奈良時代の農村社会に変化が生じ、郡司の職につくのが当然と考えられていた地方豪族の伝統的な立場が動揺してくる一方、私財を蓄積してしだいに農村内に力をのばしてくる農民層が現われてきたのである。はじめは、大神朝臣に率いられて大和朝廷の神祇関係の仕事に従事していた神人は、このようななかにあって、神人為奈麻呂のように多田あたりから能勢郡一帯にかけて勢力をのばし、郡大領の地位につくような富裕な農民へと変化したのではないかと思う。