若湯坐連

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つぎに若湯坐連(わかゆえのむらじ)についてしるそう。『姓氏録』の摂津国神別の項に、若湯坐宿禰がみえ、「石上朝臣同祖、神饒速日命(かむにぎはやひのみこと)の六世の孫、伊香我色雄命(いかがしこおのみこと)の後なり」とみえる。これにより物部氏の一族であることが知られる。この氏族はもとは連姓であったが、天武十三年(六八四)に、宿禰の姓を与えられた氏族である。宿禰の賜姓にあずかったのはこの氏族のなかの本家だけであったらしく、これ以後でも若湯坐宿禰とならんで若湯坐連もたびたびみえるのである。
 川辺郡居住の若湯坐氏も連姓であったことは、『三代実録』の貞観五年(八六三)八月の条に、本籍を川辺郡から右京に移すことになった若湯坐連宮足、仁高ら三名がみな連姓であることからも知られるのである。この若湯坐連は、御子代部(天皇が皇子のために設置した私有民)として、垂仁(すいにん)天皇のとき設置されたという伝承をもつ若湯坐部を管理した氏族であったと考えられる。この氏族が川辺郡に居住していたことはすでに述べたが、『高橋氏文』にこの氏族の祖先は物部氏の一族である意富売布連(おうめふのむらじ)としるしていること、また、今の宝塚市にある式内社の売布神社は物部意富売布連を祭っていること、さらに同じ祭神である式内社高売布神社が三田市にあることなどから考えると、この附近一帯にひろくこの氏族が居住していたといえるのではなかろうか。