なお『姓氏録』の摂津国にはみえないが、大和国神別に伊蘇志臣(いそしのおみ)がしるされている。この氏族は滋野宿禰(しげののすくね)と同祖であるといい、右京神別の項には滋野宿禰がみえる。また、『三代実録』の貞観万年(八五九)十二月の条に摂津守滋野朝臣貞雄が死んだことをしるす卒伝にも、「貞雄は右京の人なり。父は従五位上家譯なり。延暦十七年(七九八)に伊蘇志臣を改めて、滋野宿禰を賜う。弘仁十四年(八二三)に宿禰を改めて朝臣を賜う」とあって、伊蘇志臣が滋野宿禰となって、さらに滋野朝臣となったことがわかる。しかしこの氏族が摂津国と関係するのは国司としての貞雄の場合である。
ただ旧姓の伊蘇志臣は、武庫郡石井郷に伊孑志の集落があることから、この地にもともとこの氏族が居住していたと考えられており、式内社伊和志豆(いわしづ)神社があるこの地域の氏族なのかも知れない。本籍を大和さらに右京へ移し、中央の中級氏族として活躍するようになったと考えられるのは、為奈真人の場合と同じであろう。