楊津造

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楊津造は『姓氏録』摂津国諸蕃にはみえないが、右京諸蕃のところに「楊津連」とみえ、中国系渡来氏族として、王文度の子孫としるされている。楊津造はこれらの同族と考えてよいであろう。ただ、『続日本紀』の天平宝字五年(七六一)三月条にみえる、王宝受ら四人に楊津造の姓を与えた記事では、彼らを百済人としるしているが、一般的にみて、渡来系氏族のなかには、同じ姓であっても祖先がちがう氏族が多いから、右京の楊津連と別の氏族にする必要もないと思う。
 この氏族のもとの居住地が川辺郡楊津郷であり、そこからわかれて右京にも住みついたのが、『姓氏録』の楊津連でなかったろうか。楊津郷は現在の宝塚市西谷地区に東接する地域から、北部にかけての地域を範囲とし、猪名川町の木津付近と考えられているが、この一帯に勢力を持っていた氏族であったのだろう。奈良時代のなかごろに活躍した行基が、農民の救済や仏教の布教のために建立したといわれる楊津院はこの楊津郷の地であったと考えられているが、その建設には、これらの渡来系氏族である楊津造らの援助が大きかったことはじゅうぶん考えられることである。