広田連

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『姓氏録』の左京および右京の諸蕃としてみえる広田連は、もともと武庫郡広田郷を居住地としていた氏族ではないかとのみかたがあるので、この広田連についてしるしてみよう。
 『姓氏録』によると、この氏族は百済国人辛臣(からのおみの)君ののちとあり、渡来系氏族であることがわかる。この氏族がいつごろ日本に渡ってきたかは不明であるが、おそらく大和朝廷が大陸との関係をもつようになったころであろう。
 大和朝廷の摂津進出についてはすでに述べたが、この広田の地は武庫津に近く、式内社広田神社がある。したがって早くからこの地域が開け、この地域に渡来系氏族もまた早くから住みついたと思われる。ところで、この百済国人の辛氏は、辛国または辛鍛冶(かぬち)ともいい、『正倉院文書』によると、奈良時代には東大寺の写経生あるいは経師として活躍する者が多い。『続日本紀』天平宝字二年(七五八)九月十日の条に、右京人正六位上辛男床など一六人が広田連の姓を賜ったとあり、このころから広田連姓となった。しかし、すでに右京人とあるように、この氏族もまた中央官人として活躍する時点では中央に居住地を移している。したがって広田の地域とこの氏族の関係は、この広田連姓がこの氏族の旧居住地である広田郷の地名によってよばれるようになったのではないかとの推測にとどめておかなければならない。

写真101 広田神社の参道(西宮市)


 以上、『姓氏録』を通して、宝塚地方を中心とするその周辺の氏族についてみてきたのであるが、ここで述べた氏族以外にもさまざまの氏族が居住していたことはいうまでもない。これらの氏族はそれぞれこの地方に勢力をもち、地域の支配をおこなうとともに、中央へも進出していったのである。地域での支配は、文献だけでなく、古墳の分布によっても知ることができる。これら氏族が古墳を造営し、その被埋葬者であろうことは確実であるが、現在までの段階では、どの古墳の主はだれ、といったような決定はできない。しかし、大化前代から彼らがこの地方に住み、さまざまの活動をおこなっていたことはたしかであろう。そして、こうした氏族は、古代国家の動きと直接間接にあい応じながら、自らもまた変化の歩みをとげていったのである。