ここで当時大和朝廷が全国を治めるために設けた方法の一つである氏姓制度についてしるしておこう。氏姓制度というのは、氏の組織を基礎にして多くの氏族を姓によって秩序づけた支配形態をいうものである。そして、氏は血縁者が中心になり、実際には血のつながりのない者も、同一の祖先から出たという意識によって統一された共同体をいう。この氏という共同体は氏人によって構成され、それを統合するのは氏上(うじのかみ)であった。氏の下には、部民(べのたみ)といわれる私有民や賤民である奴婢(ぬひ)があって、氏上の支配下にあった。氏上は祖先の神である氏神を祭り、氏人に対する裁判権などももっていた。
この氏の組織が大和朝廷の支配下に属し、その地位に対する姓を与えられ、この結果氏姓制度ができあがっていった。朝廷は、氏の実力や社会的地位に応じて一定の姓を与えていたが、中央の有力氏族には、臣・連を、下級の氏族には造を、また地方氏族には公・直・首などの姓を与えたのである。
このうち、連や造などの姓を与えられる氏族は、特定の職掌を持ち、支配下の部民を率いて大和朝廷に仕える、いわゆる伴造といわれる氏族であった。こうした氏族のなかで、摂津地方に居住し、この氏姓制度のしくみや変遷をよく物語っていると考えられる氏族として、猪名部や贄土師部(にえはじべ)がある。そこでこれらの氏族を考察しながら、氏姓制度の性質や変遷などをしるしてみよう。