つぎに、猪名部と同様な性格を持つ贄土師部についてしるしておこう。
この氏族は土器を製作する土師連の部民であり、食物を盛る土器を作った土師部をいうのであるが、川辺郡(のちに能勢郡)の来狭狭(くささ)(玖佐佐)村に住んでいたとされている。この氏族については、『日本書紀』雄略天皇十七年条に、詔によって土師連の祖先にあたる吾笥(あけ)が、摂津国来狭狭村(今の大阪府豊能郡能勢町宿野あたり)、および山背国内村(今の京都府宇治市あたり)、俯見村(今の京都市伏見区あたり)、伊勢国藤形村(今の三重県一志郡あたり)、そして丹波・但馬・因幡の部民を献上し、彼らが贄土師部とよばれたという由来がみえる。
また安閑天皇元年条に、物部大連尾輿(おこし)が私有民である贄土師部や山都を朝廷に献上したという記事が収められている。この二つの記事から、贄土師部はほんらいは土師氏の私有する技術部民であったのが、しだいに大和朝廷の直接支配下にくみこまれ、天皇の食事用の土器を製作・貢進する職業部民となったことが考えられるであろう。
もともと土師氏は主として皇室の葬儀に関係するほか、天皇の食事のための土器をつくって貢進する氏族で、土師連そしてその一族の贄土師連の統率下にあった。この点を考えれば、雄略紀のいう、吾笥が自分の私有部民を贄土師部として献上したということはありそうなことである。しかしそう考えるとき、大和朝廷の支配力が全国に及ぶ以前に、あまりにもひろい地域に土師氏の部民が分布していたことになる。それよりもむしろ、右の記事は、大和朝廷が全国支配を進めていくなかで、上記の地方に贄土師部を設定し、土師氏に管理させるようになったものとみたほうがよいように思う。したがって、来狭狭村の贄土師部も、大和朝廷が摂津国を支配するようになったとき、来狭狭村の農民を贄土師部として設定し、それを宮廷の食事関係の仕事にあたっていた贄土師連に管理させ、職業部民として編成したもので、ここにおいて贄土師連を伴造とする公的な部民となったといえるのではなかろうか。
こうみてくると、渡来者の集団がそのもつ高度の技術によって朝廷に組織されるもののなかに、それ以前のような、氏上が氏人さらに部民を率いて仕えるといった氏族的な職業部にかわって、制度化された新しい職業部が編成され、朝廷に直接隷属し、これを役所が管理する部民制がみられるようになってくることが知られよう。
こうした形が大和朝廷のなかでかなり一般化するのは五世紀の後半以後といわれているが、それは一歩進んだ型の部民制といってもよいと思う。
このようにして氏姓制度とは一言にいうものの、より整った姿をしめすようになっていたのであり、またそれによって大和朝廷の中央集権的支配はより強力になっていったのであった。