大和朝廷は全国統一をおこないながら、政治支配機構をしだいに整えていった。すでにしるした氏姓制度や県主、国造制度がそれであるが、六世紀の末、推古(すいこ)天皇の即位にあたって摂政として政治をつかさどった聖徳太子は、政治改革をおこなって中央集権機構を整備し、天皇の権力を強化しようとした。そのさい目標とされたものが隋・唐の律令制支配にもとづく中央集権支配機構であった。太子の努力により氏姓制度の組織が整えられ、官司(役所)の上下支配関係も整備した姿をしめすようになったが、太子の望む政治改革はじゅうぶんではなく、天皇権力の強化にはほど遠いものがあった。朝廷を構成している有力豪族、とくに蘇我氏の専横により、太子の死後かえって天皇権力は弱体となる傾向をしめした。太子の政治改革の理想は、七世紀のなかば、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)たちによってようやく実現の第一歩がふみだされたのである。
皇極天皇四年(六四五)六月、中大兄皇子・中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の父子を倒し、皇子らを中心とする新政府が樹立され、以後諸種の政治改革が実現に移されていった。のちに大化改新といわれる歴史的事件がそれである。
孝徳天皇が即位すると中大兄皇子は皇太子の地位について政治の全権を握り、中臣鎌足らと新しい政策をつぎつぎにうちだしていった。すなわち、これまでの大臣・大連の制度を廃して左右大臣などの新しい官職を設け、年号を大化と定めた。同年に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に移し、政治上の諸改革をおこなっていった。そして、翌大化二年(六四六)正月、新政府の政治目標を具体的に実施するための基本的な法令として、いわゆる改新の詔を発令した。
改新の詔は四カ条からなり、政策の大筋をしめしたものである。のちの大宝・養老令の条文とほとんど同文の規定がみえたり、文章があまりにも整いすぎていることなどから、これを当時のものとするのは疑問だとする考えがある。たしかに用語などの点でそうした事がらは多くみられるが、詔の大筋は当時のものとみてさしつかえないであろう。事実、改新の詔の第二条にみえる畿内国の規定のように大化のときの規定とみられるものも存在するのである。
写真104 難波宮大極殿(大阪市)の遺構(難波宮址顕彰会提供)
この規定は畿内国の範囲を規定したものであるが、それによると東は名墾(名張)(なばり)の横河(よかわ)、南は紀伊の兄山(せやま)、西は赤石(あかいし)(明石)の櫛淵、北は近江の狭狭波(ささなみ)の合坂山(逢坂山)(おおさかやま)とあって、のちの畿内のように四つあるいは五つの国で構成されているのではなく、単一の国であることに注意が向けられる。その範囲はのちの畿内よりも広く、のちの地方行政地域である東海道に所属する伊賀、南海道に所属する紀伊、東山道に所属する近江、山陽道に所属する播磨にまで及んでいる。宝塚地方を含む摂津は当然この畿内国に含まれるものであった。
畿内の制度はもともと中国の制度であり、皇帝の居住する王城を中心として、その防衛の意味を含め、周辺の地域を特別の行政区域とするものであった。日本もこの制度を取りいれたが、ただ日本の場合、すでにしるした畿内国は、大和朝廷を構成していた豪族たちの勢力地であり、それゆえにこの地域を他の地域よりいちだんと重視して畿内国としたといわれている。そして摂津地方がかなり早くから大和朝廷の勢力下にあり、ミヤケや県も設置され、この地方出身の豪族たちの多くが朝廷に仕えていたこと、また朝鮮半島進出のための重要な根拠地としての武庫港や難波津が存在していたことを考えるとき、摂津地方が改新政府にとって重要な地域とみなされ、それゆえにこそ畿内国のなかに含まれるようになった、と考えられるのである。その重要さは以後も変わらず、やがてのちにしるすように、八世紀に入って国郡里制が整い、畿内が大和国以下四あるいは五カ国で形成されるようになると、一つの地方の行政単位として摂津国となるのであった。
ところで、新しい国家支配を目ざした改革も現実にはなお多くの問題をかかえていた。そして、天皇の専制的権力が確立され、律令という法律と整備された官僚制、さらに農民への組織だった徴税体系をもつ、いわゆる律令支配体制が確立するのは、七世紀の後半に起こった壬申の乱(じんしんのらん)後、急速に天皇権力のたかまった天武・持統朝になってであった。そして、大宝二年(七〇二)大宝律令が発布されて、ここに律令国家は完成した姿をしめすことになったのである。