では、律令支配を通して、政府は地方をどのように統治していったのであろうか。
律令政府は当時の日本全国を、畿内と東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道の八地方に分け、約六〇の国をそのいずれかに所属させた。各国は郡・里に細分され、その管理支配の責任者として国司・郡司・里長が任命された。国司は中央の役人が赴任したが、郡司・里長は在地の豪族のなかから選んで任命され、とくに郡司にはすでにしるした国造の子孫が任じられる場合が多かった。ただ京と摂津は特別な行政区域と定められ、京職・摂津職という機関が置かれ、また九州には九カ国の統治機関として大宰府(だざいふ)が設けられた。現在の宝塚市をこの時代の行政区画にあてはめれば、畿内の摂津国川辺郡・武庫郡・有馬郡にまたがる地域になるが、これについてはのちにくわしく述べてみたい。そのまえに摂津国の支配にあたった摂津職について「養老職員令(しきいんりょう)」の規定を通してみていこう。
通常の国の場合には長官である守(かみ)、次官である介(すけ)、判官にあたる掾(じょう)、主典(書記官)にあたる目(さかん)の四等官が置かれていたが、摂津職の場合は長官は大夫、次官は亮とよばれ、その下に判官にあたる大進・少進が、そして主典にあたる大属・少属が置かれる定めであり、役所の格は一般の国の場合よりうえで京の管理役所である左右職と同じであった。
摂津職の長官である大夫の職掌は諸国の長官である守とだいたい同じであるが、諸国の守の職掌にはみえない港湾や水上の関所、舟具の取りしまりなどがみえることに注意される。これには、すでにしるしたように、大化前代から難波津という重要な港が存在し、奈良時代には大陸や半島からの来客の外交事務にあたることが多かったことや、遣唐使や防人の出発地になっていたことが考えられる。また市や度量衡の管理が職掌にみえることは、難波市が当時重要な市場として存在していたことと関係しよう。もっとも他の諸国の守と同様に摂津国を支配管理していたことは、「養老職員令」の摂津職の箇所に津国すなわち摂津国を管理するとみえ、また天平八年(七三六)の正税帳(しょうぜいちょう)(地方財政の収支決算報告書)の名が「摂津国正税帳」とあること、またそれに摂津国の国印がおされていることからも知られるのである。
この「摂津職」という名称は『日本書紀』天武六年(六七七)にみえるのであるが、当時の律令国家の整備状況を考えると、これをそのまま「養老職員令」にみえる「摂津職」と内容まで同一のものとすることはできないし、「摂津職」という名称がすでにあったかも疑わしい。しかし、うえにしるした職掌と同じような任務にあたる役所が成立していたことは確実であろう。それがさらに整えられて、令の規定の「摂津職」となったと思われる。
では、「摂津国」・「津国」の名称はどうであろうか。『日本書紀』ではすでに「摂津国」が清寧(せいねい)天皇の条にみえ、「津国」は応神(おうじん)天皇条にみえる。これからすると「摂津国」・「津国」の名称はかなり古くから使用されていたことになるが、もしそうとすれば、この地域を支配していた豪族である国造のよび名として、津国造または摂津国造の名が史料のうえにみえるはずなのにまったくみえず、すでにしるしたように凡河内氏が国造として活躍しているのである。このことを考えると『日本書紀』の記載は、その編者がのちの事がらをもとにしてしるした、いわゆる追記であって、「摂津国」や「津国」の名称はかなり下ってからのものとみた方がよいようである。
ただ、津とは難波津をいい、摂津とは津を管理するという意味であるから、これらの名称はおそくとも大化改新のころには成立していたとみてよさそうである。そしてそれを受けて「養老令」に摂津職は津国を管理するとしるされたのではなかろうか。
大宝令の成立後、摂津職の官人に多くの貴族が任命されていったが、それらの者をみると、つぎのような特色をもっていることが知られてくる。
(一) 亮以上の官人には、外交官の経歴や資格をもつ人物がかなり多い。
(二) 大進以下の官人には港湾や、陸上・水上の関所の事務に練達した者が多い。
このことは、さきにしるした、摂津職がおもに難波津を中心に、外交事務にあたることを任務としていたことを裏づけるものであろう。もっとも難波には津だけでなく、離宮である難波宮や、また難波市も存在していたのであり、これらの管理もまた摂津職の官人の職務であった。これらの理由によって、「養老令」の官位令や職員令の規定から推測されるように、摂津職の官人を京職の官人と同列として諸国の官人よりもいちだん高い地位に置き、また経済的にも優遇することになったのであろう。
摂津職はのちにもしるすように、延暦十二年(七九三)に廃止され、以後は一般の国と同列に置かれることになった。この時の詔には廃止の理由として難波宮の廃止をあげているが、それだけではなく難波津の利用度が減ったことを考えてみなければなるまい。