国郡里制の変遷と摂津国諸郡

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さきに国の下の行政区域として郡さらにその下に里が置かれたことを述べたが、この里の制度は霊亀元年(七一五)に改められ、これまでの里を郷とし、その下に新しい里の制度を設けた。国郡郷里制となったわけである。この制度は当時実際に生活している農民の家族を把握し、徴税面における効果をあげ、律令国家の経済的基礎を立てなおそうとしての措置であったと考えられている。しかしそのような目的で設けられた新しい里は、当時の農民の生活を基礎においたものではなく、たぶんに徴税上の必要から機械的に郷を分割して設けた性質が強かった。そのため最初予定されていたような効果をあげることができず、天平十二年(七四〇)ころに全国的に廃止され、以後は国郡郷の制度になった。
 では摂津国にはどのような郡が含まれていたであろうか。平安時代以後の成立とみられる『延喜式(えんぎしき)』・『和名抄(わみょうしょう)』・『拾芥抄(しゅうがいしょう)』などにはつぎの一三郡があげられている。
 住吉・百済(くだら)・東生(ひがしなり)・西成(にしなり)(生)・島上・島下・豊島(てしま)・河(川)辺・武庫・兎(う)(菟)原・八部(やたべ)・有馬・能勢(のせ)
 ところが、養老五年(七二一)四月から天平九年(七三七)十二月の間に成立したと考えられている『律書残篇(りっしょざんぺん)』という書には、摂津国は一二郡としるされていて、前の三史料と郡の数にちがいがみえる。郡数がちがうことについて、和銅六年(七一三)九月に川辺郡から能勢郡が分置されたことを理由とする説もあるが、『律書残篇』の成立時期にはこのことは知られていたはずであるので、その説をそのまま認めることはできない。そこで他の史料から当時の郡について調べてみよう。
 まず『続日本紀』天平六年(七三四)三月条に、聖武天皇の難波京行幸のさい「東西の二郡に今年の田租調、自余の一〇郡は調を免ず」とみえる。この記事による限り、さきの『律書残篇』と同じく摂津国は当時一二郡であることとなる。この「東西二郡」は東生・西成二郡のことであろう。同様の方法で当時の摂津国の郡名をひろっていくと、『続日本紀』和銅四年(七一一)正月条に島上・島下二郡がみえ、和銅六年九月条には河(川)辺・能勢二郡がみえる。また天平五年の「右京計帳」と天平宝字五年(七六一)の「法隆寺縁起并資財帳(えんぎならびにしざいちょう)」に住吉郡が、天平十九年(七四七)の「法隆寺伽藍(がらん)縁起并流記(るき)資財帳」には菟原・西成・川辺・武庫・雄伴(のちの八部)の諸郡がみえる。さらに「天平年中従人勘籍」(天平九年以後同十二年以前のものと考えられる)には百済郡の名がみえ、宝亀十一年(七八〇)の「西大寺資財流記帳」には島上・豊島の二郡がみえる。最後に『摂津国風土記』逸文から有馬郡が知られるので、奈良時代には一三郡の名が確認できる。ただ天平六年当時このなかのどの郡が欠けていたかは不明である。上述のどの郡かが天平六年当時未成立であったのかもしれない。あるいはまた『続日本紀』や『律書残篇』の郡の数の記載が誤っているのかもしれない。これらのことを確認することは現在の段階では困難なので、ここでは摂津国の郡数に問題のあることをしるしておくにとどめよう。
 ところで、現在の宝塚市域は南北に細ながくのびている地域なので、中心地域は武庫郡の北部の諸郷に属するが、くわしく調べていくと隣接する川辺郡山本郷や、有馬郡羽束郷までも含むことがわかる。そこで、これらの郷の現地比定をおこなってみたいが、関係するところも多いので隣接する諸郷についても比定を試みることにする。
 現地比定というのは、当時の郷が現在のどのあたりになるのかを、郷名と現在の地名の共通点、類似点を探りながら決定していくことをいうのであるが、ただこの場合、つぎのことに注意する必要がある。それは、律令国家によって設定された里(のちの郷)は五十戸一里(のち一郷)というように、戸数を対象として設定されたもので、一定の広さをもった地域を郷として設定したものではなかった。そこでは地域の広さというものは考慮の対象になってはいないことになるのである。しかし、戸といってもそれは当時の人びとが現実に生活している家を基礎にしているわけであるから、生活に必要な耕地や山林とか、あるいは生活領域なども考慮にのぼることは当然であろう。そこに郷が地域性をもってくることが考えられてくるのである。そして、戸数を対象にするとき、人口密度の高い地域に設定される郷の数は多く、逆に密度の低い地域はかなり広範囲の地域を一郷とすることになってくる。山地部よりも平野部、しかも交通に便利で産業もさかんな地域に人口が集中化する傾向にあることは、古代でも変わりはない。こうしたことを考えるとき、宝塚市域の北部などは一つの郷がかなり広い地域を含むことになるのは、ある意味で当然のことではないだろうか。このことを郷の現地比定にさいして考えておく必要があろう。なお、これまでにそうした立場に立って現地比定を積極的におこなったものとして『大日本史国郡志』・『日本地理志料』・『大日本地名辞書』の三つの史料があるので、これらを参考にしながら現地比定にあたることにする。

写真107 山本郷の現状 山本台から南をのぞむ