川辺郡は雄家(おべ)・山本・為奈(いな)・郡家(ぐんが)・楊津(やないづ)・余戸・大神(おおむら)・雄上(おべのかみ)の八郷であるが、そのなかで宝塚市域に入る郷また隣接する郷はつぎの諸郷である。
楊津郷『大日本史国郡志』(以下『国郡志』と略称)には「今、木津・対津の二村あり、即ち其の遺名なり」とみえ、『大日本地理志料』(以下『地理志料』と略称)には「柏原(かしはら)・西畑・島・杉生(すぎう)・鎌倉・仁頂寺(にじようじ)・清水・篠原・林田・栃原・木間生(こもお)・木津にわたる十二邑を六ノ瀬谷という。布木・田中・十倉(とくら)・坂井・片子・下・末吉・河原にわたる八邑を高平谷という。倶に多田荘に属す。是れ其の地なり」とある。また『大日本地名辞書』(以下『地名辞書』と略称)には「今、中谷村・六瀬村なるべし」とある。三史料とも少しのちがいはあるが、現在の猪名川町の北半分の地域をさし、中心を木津あたりとする点には相違はない。宝塚市の西谷地区に東接する地域からさらにその北部にかけての地がこの郷にあたるといえよう。
大神郷 『国郡志』は「今、大物村なり、郡の南に在り」としるし、『地理志料』にも「錦楽寺(きんらくじ)・東長州(ながす)・中長州・西長州・大物・尼崎の諸邑にわたるを大州荘と称す。(略)大物浦、是れ其の遺名なり。浄光寺・杭瀬・梶島を富島荘という。七松・水堂・東難波・西難波・別所を橘御園荘という。上島・栗山・三反田・大西を生島荘という。是れ故区なり」とみえて、ともに現在の尼崎市一帯を大神郷とみている。これに対し『地名辞書』には「今、多田村並に東谷なるべし」とみえて異説を述べている。尼崎市域は同じ川辺郡の余戸郷とみるのが妥当と思われ、大神郷は『地名辞書』にいうように現在の川西市域に入り、多田の多太神社のあるあたりを中心として、西は虫生(むしう)・赤松・柳谷・芋生(いもう)あたりまで、北は一庫(ひとくら)あたりまでを含む地域と考えた方がよいように思う。宝塚市の東北部に接する地域ということになろう。
雄家郷 『国郡志』に「今の小戸荘、郡の東に在り。(略)雄家と小戸と同訓なり」とある。『地理志料』には「小花・栄根・火打・滝山・萩原の諸邑にわたるを小戸荘と称す。是れ其の地なり」としるされ、『地名辞書』では「今、川西村に大字小戸あり」とみえて、三者とも現在の川西市の南部、小戸神社を中心とする一帯をさしている。現在の宝塚市の東部に隣接する地域であるが、市域の一部が含まれていたことも考えられる。
山本郷 『国郡志』には「今、山本村、雄家の西に在り」としるされ、『地理志料』には「山本・満願寺・平井の三邑を領す。中筋・中山寺・米谷・安場・小浜・加茂・久代の諸邑にわたる」とみえる。『地名辞書』には「今、長尾村と改む。大字山本存す。川西村の西に接し、多田の横峰の南面なり」とある。これらの記事から推測すると、川西市加茂・久代さらに飛地の満願寺の地域を含んで、宝塚市の平井・丸橋から西の一帯にわたる地域となる。山本・中筋・中山寺・米谷・川面・安倉・小浜の地もこの郷域に含まれ、宝塚市の東南部にあたることになろう。延喜式内社の加茂神社はこの郷にあったことになる。
郡家郷 『国郡志』は「今山本の南の鴻池村に遺名あり」としるすが、現在、伊丹市鴻池付近に類似の地名をみいだすことはできない。『地理志料』も『国郡志』と同様に「鴻池・荻野・安倉・川面・新田中野の諸邑にわたる」としるして同一地域をさしている。ところが『地名辞書』は「今、伊丹町なるべし。此地、猪名野宮在りて旧邑なり。今に至るも郡衙あること偶然にはあらじ」としるして伊丹市域に比定している。この郷の名は郡衙(郡の役所)があるところからそう名づけられたと思われるが、郡衙の所在地は交通に比較的便利なところが選ばれたと思うので、西国街道(現在の一七一号線とほぼ一致する)に沿った伊丹市の中心部の方が鴻池付近より妥当のようである。のちにもふれるが、江戸時代につくられた、尼崎藩が国役としておこなった川辺・武庫・有馬三郡の土砂留(どしゃどめ)の地図によると、伊丹の町なかから昆陽(こや)へつづく道があり、昆陽から一本は尼崎に、一本は武庫川を渡って下大市・上大市に向う道となっている。こうした点を考えると、『地名辞書』にいう地域が郡家郷ではなかっただろうか。とすれば、現在の宝塚市の南東に接する地域となろう。ただ、右の土砂留の地図によると、小浜も道の分岐点になっていて、交通の中心であったらしい。こうした道がいつの時代までさかのぼれるかは問題のあるところだが、道というものが長い年月にわたってそれほど変化するものでないことを考えるとき、さきにしるした山本郷のうち、川面・米谷・安倉・小浜の一帯はむしろ郡家郷となるかもしれない。この考えに立てば宝塚市域の東南部は山本郷そしてその南に郡家郷が接していたことになろう。いま、『地名辞書』の説にしたがって伊丹市の中心部としておくが、問題のあることをつけ加えておこう。
以上で川辺郡の諸郷のうち、宝塚市域に含まれる郷、または市域に隣接する郷についてしるしたので、つぎに武庫郡の諸郷のうち、同様な条件にある郷についてしるそう。
昆陽郷 『国郡志』には「今、西児屋村、郡の東に在り」とみえ、『地理志料』は「河辺郡に昆陽村有り。新田・池尻・寺本・山田・時友・友行・野間・東富松の諸邑にわたるを昆陽荘と称す。所謂昆陽寺は其の寺本村に在り。是れ其の故区なり」としるす。また『地名辞書』には「今、河辺郡稲野村是れなり。昆陽寺昆陽池等此に在り。北は山本郷、南は武庫郷に至り、武庫川其西を流る」とあり、三者ともその地域は一致している。ただ時友から南は武庫郷に属すると思われるので、現在の伊丹市昆陽・寺本・池尻・西野の一帯が昆陽郷にあたるであろう。武庫川をへだてて宝塚市の東南に接する地域で、山本郷の南に位置することとなる。
武庫郷 『国郡志』には「今、武庫荘、村四を属す。児屋の南に在り」としるし、『地理志料』には「東武庫・西武庫・武庫荘・西富松の四邑にわたるを武庫荘と称す。是れ其の地なり」とある。『地名辞書』にも「今、武庫村是れなり。大字武庫存し、武庫川の東なり」とみえて三者とも一致している。今の阪急電車の武庫之荘一帯をいい尼崎市の西北部にあたる。武庫川をはさんで西宮市域に接し、同時に宝塚市の南端部に接する地域となろう。
賀美(かみ)郷 『国郡志』は「今、詳(つまび)らかならず」として地域を明らかにしていない。『地理志料』はいちおう「鹿塩・蔵人・小林・伊孑志の四邑にわたる。領家荘と称す」としるしてはいるが、疑わしいとして断定をさけている。これに対し『地名辞書』は「今、塩瀬村なるべし。武庫河の中游にして有馬山中に近接するを以て、後世有馬郡に属するならん」としるし、名塩・生瀬一帯とみている。賀美郷が後世有馬郡に属したことはたしかなので、『地名辞書』のいうように現在の西宮市塩瀬町一帯を指すとみるのが妥当のようである。宝塚市に西接する地域となろう。
石井郷 賀美郡の場合と同じく『国郡志』は「今、詳らかならず」としるしているが、『地理志料』は「今按ずるに石井は石堰(いしい)なり。(中略)越水・越木岩・西宮の諸邑にわたるを戸田荘と称す。芝・高木・上大市・下大市・門戸・段上の諸邑にわたるを大市荘と称す。蓋(けだ)し其域なり」として、現在の西宮市の南東部とみている。これに対し『地名辞書』は「今、郡郷の布置を按ずるに良元村に擬すべし」としるしている。『地理志料』の現地比定は、賀美郷を蔵人・小林・伊孑志のあたりとみたために、石井郷を南にずらしたのであろうが、賀美郷は既述のように塩瀬町一帯とみられるうえに、石井郷を南にずらすと広田郷と重なりあってしまうのではなかろうか。むしろ『地名辞書』のいうように良元村とみ、伊孑志・小林・蔵人などの地域を含むところとみるのが妥当のように思える。現在の宝塚市の南部、阪急今津線の東側一帯が石井郷にあたることになろう。
広田郷 『国郡志』は「今、広田村、津門の北に在り」としるし、『地理志料』には「広田・中村・上原の三邑を領す」とみえる。『地名辞書』には「今、大社村大字広田あり。芝村・甲東村も本郷の属なりしならん」とある。これらによれば現在の甲山の東および南山麓部一帯が広田郷にあたり、中心はおそらく広田神社付近にあったと考えられる。すでにしるしたことであるが、『日本書紀』の神功皇后摂政元年の条にみえる説話の中の「広田国」はこの地域にあたるのであろう。宝塚市の南部と接する地域となる。
以上、武庫郡の諸郷のうち一部あるいは全部が宝塚市域に入る賀美郷と石井郷、また市域に隣接する昆陽・武庫・広田の諸郷について述べてきた。最後に有馬郡のうち関係が深いとみられる春木・羽束の二郷についてしるしてみよう。
春木郷 『国郡志』には「今、郡の北、青野村に地名なお存す」とみえ、『地理志料』には、「母子(もうし)・上青野・下青野・東末(すえ)・西末・加茂・井沢・東野上・西野上・下内神(うちがみ)・上内神・沢谷・大川瀬・下相野の諸邑にわたるを仲荘と称す。是れ其の地なり」としるす。この二資料によると現在の三田市域の西半分ほどの地域がこれに含まれることになるが、これはあまりにも広すぎるといわなくてはならないし、地形や集落の状態を無視しているきらいがある。むしろ『地名辞書』のいう「湯山・山口・有野などにあたる」との説が妥当に思われる。現在の西宮市の西北部から神戸市の東北部にわたる地域となり、石井郷の西、賀美郷の西南に接する地が春木郷にあたろう。
羽束(はつか)郷 『国郡志』には「今、香下(かした)村に羽束山あり。即ち其の遺名なり」とみえ、『地理志料』は「羽束山は香下村に属す。福島・高次(たかすぎ)・桑原・田中・山田・香下・志天原(しではら)・尼寺(にんじ)・小野・乙原(おちばら)・小柿の諸邑にわたるを松山荘と称す。蓋し其の域なり」としるす。『地理志料』のとくところによると、さきの春木郷と同様に、三田市の東半分がすべて含まれてしまうが、これでは、この郡の他の諸郷すなわち幡多(はた)上郷・幡多下郷・大神郷・忍壁(おしかべ)上郷・忍壁下郷の現地比定にあたってかなりの無理を考えなくてはならなくなってしまうのである。『地名辞書』は「今、高平村(大字羽豆川)、西谷村(大字羽豆、今、川辺郡に属す)是れなり。」としるす。これによると現在の宝塚市の北部とこれに接する三田市の一部がこの地域にあたるわけで、この意見が妥当のように思える。さきにしるした川辺郡の楊津郷に西接する郷が羽束郷ということになろう。
奈良時代の宝塚市域にどのような郷があったかを、以上のように検討してきた。隣接する諸郷を含めて図示すると図78のようになる。いうまでもなく、こうした現地比定をおこなうにあたっては不明な点や、さまざまの考えが対立している場合が多い。したがって右にしるした郷の現地比定がすべて絶対だというわけではない。もっと妥当な考えがあるかもしれない。ここではあくまでも一つの考えをしるしたにすぎないのである。