重層した刻印

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われわれが、今日も生活しているこの大地のうえで、江戸時代の人びとも、鎌倉・平安・奈良の各時代の人たちも、それより前の古墳・弥生の遠い時代の人びとでさえ、生活をつづけてきたのであった。土地を耕し、家を建てて住み、村をつくりおたがいに行ききしながら、世代を継いできたのであった。したがってこの土地には、何百年、何千年の歴史がしみこんでいる。そしてその歴史が一連に継続しながら発展してきたことと対応して、この土地に刻まれた刻印の方もまた、変遷をくりかえしながら、幾重にも積みかさなっているのが実情である。このため、われわれはその層の一枚一枚をていねいにはがしながら、歴史の跡を眺める必要がある。
 さて、土地に残された刻印とは、具体的には何なのであろうか。まず第一には自然にできたものがある。それは山や川、土地の傾斜などである。第二には人の手でつくられたものがある。それは道路・畦畔(けいはん)・水路であり、また目にはみえないが、地名や国・郡・村などの境界線である。
 自然にできたもののなかで、山はまず動かないが、川はずいぶん変遷をくりかえしてきた。浸食と堆積という作用を通して、耕地に働きかけ、道路・畦畔の変更をもたらした。たとえば武庫川の大氾濫(はんらん)の結果、見佐(みさ)村が流失した歴史などはいちじるしい例の一つである。これほど大規模でなくても、川の氾濫は何年目かに生じているので、川に沿ったところでは、その土地に破壊と修復の歴史がしっかりと刻みこまれている。
 人の手になる刻印は、いずれも土地的慣性によって、いったん定まると比較的長い期間その状態を維持し、よほどの理由のない限り変更しないものである。たびたび変更すると人びとの生活に大きな支障をもたらすからである。とくにわが国では、古くから水田耕作がおこなわれてきた結果、その目的のためにつくられた道路・畦畔・水路などは千年以上にもわたって旧状を伝えているものが多い。これから述べようとする条里制遺構というのも、その一つである。もちろん千年という長い年月にわたるため、すべてが旧状というわけではなく、部分的には変遷している。ただ条里制は後述するように、一定のルールのうえで実施されているので、たとえ変遷していても過去の復元が可能なのである。
 目にはみえない地名もいったん命名されると比較的長い生命をもっている。しかしけっして不変ではないから、できるだけ古い地名を選別しなければならない。だがここで問題にしようとする条里制とかかわりをもつ地名は、すべて数詞を冠しているので、他の一般地名と明白に区別できる。
 またわれわれは最後に境界線についても注意しなければならない。人びとが集団生活をするようになると、自然に「縄ばり」が生まれ、その範囲を守ろうとする。その範囲をしめすものが境界線である。自然発生的なムラは最初のうちは不定型の境界線から成りたっていたであろう。しかし律令制が確立し、国・郡・郷制が設けられ、班田収授の目的で条里制を施行した段階では、その条里区画に合わせて、従来のムラを郷の組織のなかに組みいれたようである。人口規模に応じて、一ムラで一郷の場合も生じたであろうし、二、三のムラで一郷を形成した場合もあったように考えられる。しかしどの場合でも、できあがった郷の境界は条里区画線に一致していたはずである。
 律令制によるこの郷も、のちになるとあるものは庄になり、あるものは村や保(ほ)などに分かれたりはするが、江戸時代になってもなおよく郷名を保ち、その境界線を守りつづけてきたものもある。したがって明治期に入ってから、後半の市町村制施行のときの行政村域が、そのまま過去の郷域を受けついでいる場合があるので、現在の市町村の内に残る旧村界・大字界についてはじゅうぶん注意しなければならない。宝塚市域のなかでも旧長尾村の一部に、条里区画線と大字界との、みごとな一致がみられる例がある。