大化改新の後、大和朝廷が全国統一の手段として、まず村主(すぐり)・県主・国造による間接的な支配をおこない、ついで古い人間関係を断ちきった国・郡・郷制を実施したことは、すでに述べられたところである。こうした新しい行政単位が設けられるとともに、他方では、大化改新の原理である公地公民主義にもとづいて、班田収授法が実施されることとなった。すなわち、従来世襲されてきた王族や中央・地方の豪族たちの私有地をすべて取りあげ、それを一定基準にしたがって公民に班給することとなった。
一定基準というのは、田令のなかにしめされているように「田地については、男子は二段、女子はその三分の二を給し、五歳以下には班給しない。またそれは六年ごとに実施する。地方の土地によって、広狭のある場合には、配分はかならずしもこの基準によらなくてもよく、いわゆる郷土の慣習法で処理してさしつかえない。なお土地がやせている場合には、基準の二倍を班給する。園地はその地方の土地の広さに応じて一定面積を均等に与えること。班給はすべて郡単位でおこない、口分田(くぶんでん)がその地の人口にみあうときはそれを寛郷とよび、不足する場合にはこれを狭郷とする。狭郷の班田は、他郡の寛郷の土地をあててよい」といった内容である。
このような一定基準によって田地を班給するということになると、土地自体が新しい度量衡の単位を使った、町・段・歩で測れるように、一定の区画に区ぎられていなければならない。不整形でさまざまな地積の土地や、古い度量衡を使って区ぎった田地では、とうてい新制度による班給はできない。また田令では「班田が完了したときは、詳細にその町段と四至(しいし)(東西南北の境)とを記録すること」とあるから、その記録のためにも、区画された土地の位置を明示できるよう地番づけが必要である。以上二つの目的、すなわち土地そのものを新度量衡(町・段・歩制)に合わせて一定面積に区ぎることと、区ぎられたその土地の位置表示を明確にすることとから、ここにあらたに条里制という制度が誕生した。
しかし八世紀という時点において、山林・原野はいちおう除外したとしても、全国の耕地をいっせいに区画し、同時に地番づけをするということは空前の大事業で、不可能に近い。それにもかかわらず現実には班田収授がおこなわれていることから考えると、何か理由がなければならない。これがいわゆる大化前代開発説で、すでに大化前代からこのように一定区画に土地を区ぎって開発する方式が慣習的におこなわれており、条里制はそれを踏襲したものであろうという見解である。しかし踏襲したといっても、度量衡があらたに制定されたこともあって、そのままでは流用できないから、従来の区画に多少の手なおしをして新度量衡に合わせ、またこれまで区区であったものを郡単位に整備統一したものが、条里制における土地区画とみるのである。
こうした手なおしと整備統一の作業が郡単位としておこなわれたことは、郡こそかつての国や県の移行したものであり、そこに残っていた区画や慣習法が、多少の手なおしはなされたとしても、そのまま条里制に移行したので、大きな抵抗もなく班田収授が実施できたわけであろう。