条里制の第二の特徴は地番づけである。与えられる班田地の位置は、これによって明確にしめされた。地番づけも区画の大・中・小に応じておこなわれた。
まず、ほぼ東西南北の方向をとる郡の条里基準線が定められると、それに平行および直行する阡陌線(せんはくせん)(条里大区画の経緯線)をそれぞれ六町間隔で区ぎって、いくつかの大区画ができあがる。そこで直交する基準線から数えて、それぞれの阡陌線に何条または何里の番号をつけた。東西に走る阡陌線を条でよぶ場合には、南北に通る阡陌線を里で数え、東西の阡陌線を里とよぶときは、南北の阡陌線を条とした。したがってどの大区画の位置もつねに阡陌線の座標によって何条何里で正確にしめすことができた。宝塚の例をひくと、「摂津国河辺北条十四条三里」といった表現となる。
条や里の番号のつけかたは、郡の南北基準線のある位置によって異なった。基準線が東端にあるときは番号は西に進み、西端にあるときは東進した。東西基準線の場合も、これとまったく同様で、そのある位置によって進行方向が異なった。また基準線が郡の中央に設けられた場合には、それを中心に両方向に別番号をつけている。宝塚の場合、川辺郡北部の条里と、武庫郡北部の条里は、いずれも郡の東端に条の基準線を設け、里の基準線は山麓に定めたようである。したがって両郡の条里とも、条は西進し、里は南進している。
何条何里という表現で地番づけのなされた大区画に対して、中区画の坪には一から三六までの番号がつけられた。このときの番号の進みかたには、大区画のなかを折りかえしながら進む連続式と、直進のみをくりかえす平行式の二型がある。そして大区画のなかのどの隅から数えはじめるか、そこを起点に東西に進むか、南北に向うかといったことの組みあわせから、八組の方法が考えられ、さらに前述の連続式・平行式を加味すると、合計一六種類の番号づけをすることができることとなるが、実際にはこのなかの幾種類かに限られている。というのは、中区画(坪)の番号づけは、かならず、大区画の条里番号づけの進行方向に対応しているからである。たとえば条が西進し、里が南進している場合には、坪番号の「一ノ坪」は大区画の東北隅にはじまり、連続式であれ、平行式であれ西進していくたてまえである。宝塚の場合、川辺郡も武庫郡も、この位置ではじまる連続式の地番づけがおこなわれているが、畿内では一般に連続式が多く、平行式はむしろ周辺地域にみられる(図82)。
小区画(長地型・半折型の地割)には何ら特別な番号はつけられず、一坪のなかの位置を「東依(よ)り」とか「未申角(ひつじさるすみ)」などといったことばで表現しているにとどまる。班田にあたっては、かならずその土地の四至が記録されることになっていたから、ことばで表現してもまちがうことはなかったためであろう。
以上が条里制の原則や内容のあらましであるが、条里制にもとづく土地区画は郡単位でおこなわれたから、長いもので十数キロメートル、短いものでも七、八キロメートルの長さの基準線をもとに、その区画が展開している。したがって条里区画の範囲はかなり広大な面積に及ぶ。しかしわが国は国土が細ながく、中央に脊梁(せきりょう)山脈が走る関係から大平野に乏しく、条里の施行地も均一な平坦地ばかりではない。そのうえいくつかの川がそこを横断しているのが普通である。このような条件のもとで条里制が施行されたと考えられるので、すべてが原則通りとはいえない。また大化前代の開発にしても、大化以後の区画整備にしても、けっして同時にいっせいにおこなわれたものではないから、時代のずれからくる相違もあらわれてくる。