武庫平野には五組の条里がみられる。ここの地形は巨視的にみて、中央に伊丹段丘をもつ扇状地・三角州による複合の沖積平野である。そして全域をほぼ三分するような形で、猪名川・武庫川が南北に流れている。古くは猪名県と武庫国の故地であったが、国郡郷制によって、猪名川の西側を中心にして川辺郡が成立し、その東端は猪名川の東側で豊島郡に接し、武庫川の場合には同様に、その西側を中心にして武庫郡が成立し、郡の東端は、武庫川の東側で川辺郡と接することとなった。したがって武庫平野には、三郡が成立したのであるから、条里の原則では三条里が施行されるはずなのに、じっさいには五条里(呼称の上では七条里)が存在している。このなかで、豊島郡も武庫郡も一連の条里区画であって、地番づけだけがやや不規則であるが、川辺郡になると、条里区画自体が阡陌線の方向をまったく異にした三ブロックからなり、地番づけは二通りといったいちじるしい不規則さが存在する(図83)。
市域における武庫・川辺両郡の条里の詳細は後述するとしても、このように条里の原則から逸脱する型の存在はひとり武庫平野に限ったわけでなく、全国各地にみられる現象でもある。したがってすべての条里に共通する原因がなければならない。その原因は条里制に先行した「阡陌開発」によってできていた土地区画の存在に求められる。