阡陌開発という方法は、おそらく古墳時代の中期以降、大陸から朝鮮半島を経て伝えられたものであろう。区画基準線の方位を重視し、道路と水路をともなった正方形の耕地を、つぎつぎと連続させて開いてゆく方法なのである。この方法は中国では黄河流域を中心に、紀元前からおこなわれていた。そして漢代には朝鮮に伝えられているから、三国(呉・魏・蜀)から南北朝のころにはわが国にも伝来したといえよう。
わが国では八世紀になって唐の制度をもとにして度量衡を定めたが、そのときモノサシの寸法を唐大尺に合わせて、一尺のモノサシをつくった。同時にそのモノサシで測って一尺二寸にあたる古いモノサシの使用も認め、雑令のなかで「一尺二寸を大尺の一尺とすること、土地を測るにはこの大尺を用いること」としるしているのは注意すべきことである。
もともとわが国にはモノサシなどはなく、「アタ」・「ツカ」・「ヒロ」などとよばれる、手を使った測りかただけが存在していた。ところが朝鮮や中国と接触するようになって、それぞれの国のさまざまな寸法のモノサシがわが国に伝えられ、それが土木・機織・建築などに使われるようになったと考えられる。そのなかの一つに土地を測るための長いモノサシも含まれていたわけである。
この長いモノサシの寸法が新制度のモノサシで測って一尺二寸に相当したというから、当時の唐大尺より長いモノサシであったことがわかる。実は江戸時代以来つづくモノサシ研究では、この大尺は高麗尺(こまじゃく)、または東魏(とうぎ)尺とよばれている。その名称から考えると、どうやら紀元五~六世紀のころ、中国から朝鮮を経てわが国に伝来したということになる。この種のモノサシが入るとともに、それを使っての阡陌開発がさかんになったものであろう。
したがって八世紀になり、新しい度量衡によるモノサシが定まったのちでも、使いなれたこの古いモノサシ(高麗尺)を使用しなければ、土地区画や面積が測りにくかったわけである。しかし現在では、当時使用した高麗尺の寸法はわかっても、これを使って開発した阡陌区画の形態はまだ明らかでない。というのはそれらの区画が、条里制施行にあたって整備統一され、完全に条里区画や地割のなかに埋没してしまっているからである。古い地積単位からなる五〇〇代(しろ)が、新しい単位である一町に相当したという記録から、わずかに阡陌区画の原型を推定するにとどまる。それによると、条里制による一坪の区画が、五代ずつ一〇〇個の小区画から形成されていたといわれる。
なおここに「代」という耳なれないことばがあるがこれは高麗尺を使って区画した地割の単位で、一代の面積は〇・二四アールに相当する。