奈良時代に実施された条里制を復元するためには、そこが現在も水田耕作地帯であること、条里区画である方形地割が連続してみられること、当時の条里番号が今なお地名として残っているといった条件が必要である。市街地や住宅地を除いた平野部が、どことも水田耕作をしているので、第一の条件は容易に満たすことができるが、第二・第三の条件がつねにそろうとは限らない。しかし一見これらの条件を欠いているようにみえる地方でも、史料や古地図によって土地の刻印を一枚ずつめくっていくと、意外にそれらの存在をみいだす場合がある。ここに条里復元の苦労とまた喜びがある。
復元の第一歩は、条里制がいちおう郡単位に実施された事実をふまえて、その郡界および郡域を確認することである。もちろん郡界は長い時代の間に変遷していることも予想して、可能な限り古い郡域をおさえなければならない。その目的から、逆に各条里区画の連続性を利用して、条里基準線をみいだし、当時の郡界を推定する方法もある。
武庫平野にあってはこの方法を採用して、川辺郡界と武庫郡界の東端が、それぞれ猪名川・武庫川の左岸、すなわち東側深く入りこんでいる事実をみいだした。もちろん現在の郡界の大部分は両河川の中央に移っているが、現在でもなおその一部は古い郡界に一致している。川辺郡条里も、武庫郡条里もその基準線はそれぞれ郡の東端に置かれているから、条か里の進行方向は西進していることがわかる。
一二世紀の写本ではあるが、八世紀の様子を伝える東大寺領猪名荘絵図によると、この荘園が東から西にかけて四条にまたがり、北から南にかけて三里にわたる事実がわかり、東端の基準線は条の基準線であることが明確となるのである。
武庫郡の条里については、条里坪づけを記載した地図がないので証明は困難であるが、中世史料によって、川辺郡同様に東端の基準線が条の基準であり、西に進むことの推定ができる。里の基準線は武庫平野北部の山麓にあることになるが、後述するように川辺郡・武庫郡とも里の数えかたに出入りがあり、その一線はまだ明らかでない。
いちおう基準線が定まると六町間隔の大区画(里)と一町間隔の中区画(坪)によって構成される条里遺構の復元をはじめる。もちろんこの作業には現在も残る土地の刻印を手がかりとするが、ここでもできる限り過去の刻印を追跡する必要がある。時代がさかのぼるほど古い姿を残しているからである。水路・道路・畦畔はもちろんのこと、大字界・小字界もそのなかにみごとに方形区画の跡を残しているものがある。こうしたものを手がかりとすると、水路や道路では捕えられなかった遺構を復元することができる(図84・85)。
条里遺構の復元が完了すると、地番づけの復元をおこなわねばならない。この目的のために数詞を冠する小字地名を集め、その地名のしめす範囲を条里遺構復元図のうえに重ねていく。明治六年(一八七三)の地租改正のさいに、それまで存在していた多数の小字を整理統合しているので、現在の小字地名のしめす範囲のなかに数倍の小字名が埋没している。したがってかつてしめした数詞地名がどの範囲であったかを確認する必要がある。明治六年以前の地図があれば容易に旧位置を知ることができる。もちろん江戸時代の絵図が残っていれば、さらに都合がよい。
参考までに旧良元村大字蔵人の新旧二枚の小字図を掲げてみた(図86・87)。
条里復元図のなかに幾組かの数詞が記入された段階で、起点になる「一ノ坪」の位置を想定する。さいわい「一ノ坪」が小字地名として残っている場合は作業は容易であるが、「三ノ坪」や「八ノ坪」であると、起点の「一ノ坪」を確定しなければならない。しかし前述したように、大区画(里)のなかの坪番号のつけかたはかならず一定のルールにしたがっているから、それによって逆算すると「一ノ坪」の位置が想定できる。
武庫平野における進行方向のルールは、大区画(里)の東北隅にはじまり、西に向かって連続式に進行するということである。
さて、残っている数詞地名を利用し、ルールにしたがって逆算して「一ノ坪」の位置を割りだす作業は簡単であるが、今かりに、三つの数詞地名があったとして、それぞれから逆算していくと、「一ノ坪」の位置が三カ所になるといった場合がしばしば起こってくる。
この原因はルールの誤りではなく、実は残存している数詞地名の変遷なのである。がんらい条里地名とよばれているこの数詞地名は地名ではなく、班田収授実施のための地番づけに過ぎなかったが、時代がたつとともに地名に変化したものである。ところが地名ということになると、延喜式以来の原則である「二字佳名」(二字からなり、よい意味をもつ)にしばられて、ここに数詞の脱落がはじまったのである。
条里地名はすべて二字目に「坪」の字を入れるため、頭にのる数詞は一けたでないと原則に合わない。そこで二けた数詞の、上の文字が脱落するか、場合によっては「坪」の文字が脱落して二字の数詞だけ残る結果になる。たとえば「三ノ坪」が残っているとすれば、いちおう「三ノ坪」・「十三ノ坪」・「廿三ノ坪」・「卅三ノ坪」のいずれかであったことも考慮して、前述の逆算法をおこなうと複数の条里地名からでも、「一ノ坪」の位置は同じところに落ちつく。「坪」の文字の脱落の例は旧小浜村大字米谷で、江戸時代の絵図のなかに「十一」という小字名をみいだすことができた。これは「十一ノ坪」の変化したものである。
以上のような手つづきで大区画(里)のなかの坪づけは復元できるが、大区画そのものの条里番号はどうすればわかるのであろうか。もちろん地名として残っていれば好都合であるが、全国的にみてもその例はきわめて少ない。数詞を冠した条や里の地名は宝塚に一つもない。したがってこの点に関する限り文書史料によることになる。川辺郡条里については池田市の寿命寺文書、川西市の満願寺文書、富田仙助氏所蔵文書により、武庫郡条里については大徳寺文書を利用することとなった(図90参照)。