武庫郡条里の復元

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昭和二十九年(一九五四)に消滅した武庫郡は、実は明治二十九年(一八九六)に旧莵原・八部の二郡を合併したものであって、本来の武庫郡は、古く和名抄や延喜式にみえる八郷よりなるそれをさしている。八郷とは、賀美(かみ)・児屋(こや)・武庫(むこ)・石井(いしい)・曽禰(そね)・津門(つと)・広田(ひろた)・雄田(おだ)を意味する。和名抄における郷名の記載順序には一定のルールがある。武庫郡の場合は武庫川の左右両岸を上流から下流へと列記したようである。したがって左岸に賀美・児屋・武庫の三郷が、右岸に石井・曽禰・津門・広田・雄田の五郷があったものであろう。このなかで児屋(昆陽)・武庫・津門・広田は現在その名を残しているが、左岸の賀美と右岸の石井・曽禰・雄田の地名は消失している。消失した地名が現在のどこにあたるのかについて、古来いろいろ論ぜられてはいるが、賀美が「かみ」(上)で、武庫川の上流を意味するとすれば、当然左岸の小浜以西の地域が推定される。このことは明治初年のころまで、武庫郡界が武庫川左岸の川面付近にあったことからも裏づけできる。
 つぎに石井は「石堰(いしい)」に通じ、湧泉地帯をさすので、すでに地質の項で明らかにされたように六甲山東麓の扇状地、台地末端に分布する一連の湧泉地帯による命名といえる。この条件を満たすのは、旧良元村から旧甲東村にかけた範囲となる。また曽禰は「ソネ」(荒地・石地)の意味であるから、武庫川右岸の氾濫原にあたる旧瓦木村と甲東村の一部に相当し、雄田は旧大社村域が比定される(図88)。

図88 武庫郡の郷位置比定図


 以上の範囲が旧武庫郡領域であるとすれば、武庫郡条里はそのなかに施行されていたはずである。想定される旧郡界を左右に条里阡陌線の方向は明白に異なっている。すなわち武庫郡側では西偏一二度であり、川辺郡側では西偏四度をしめしている。このことからそれぞれが別条里であり、西偏一二度の方向をとる条里はすべて武庫郡条里に属するとみてさしつかえない。現在の郡界は尼崎市内の蓬川(よもがわ)の流路を追っているが、古くはそれと無関係に直線的であったと考えられ、そうだとすれば、武庫条里の基準線は郡界に置かれ、これを基準に条を西に数えたことがわかる。基準線を北に延長すると現在の昆陽の北で終わってしまうが、この付近は古くは昆陽池を中心とした低湿地帯であるから、開発できなかったものであろう。現在のところ、里に関する基準線は明らかでない。
 武庫郡条里は基準線から西へ一条から十一条にわたるが、郡内には武庫川をはじめ仁川、逆瀬川などが流れているため、中世のころには武庫川左岸の条里を武庫東条、右岸のそれを武庫西条、仁川以北、すなわち旧良元村域の条里を武庫北条と区別したようである。しかし条里呼称については、単に東・西・北の文字を冠するだけであって、条や里の数えかたはまったく一郡一条里のルールにしたがっている。武庫東条および武庫西条は現在の尼崎市域と西宮市域に属するため、ここでは省略して、宝塚市域に属する旧良元村の武庫北条を取りあげることにする。
 旧良元村が武庫北条にあたることは、安元元年(一一七五)に書かれた『行基年譜』のなかの記事に「児屋小林荘、小林平林寺は涅槃像(ねはんぞう)を蔵している。それには武庫北条小林上荘と題してある」とみえることによる。武庫北条の条里の番号は、これに関する史料がみあたらないため、史料のある武庫東条と武庫西条から推す以外に方法がない。これらによると、五条、六条が確実に存在していたようである。
 また里についても同様に武庫西条から逆算してくると、一里から七里まであったことがわかる。現在遺構のうえから確認できるのは、五条三里~六里、六条三里~六里の範囲である。武庫川を渡った旧小浜村域の条里については遺構も地名も皆無であって、理論的に、ここにも武庫郡の条里がのびてきていたであろうという推定にとどまる。