大化前代の猪名県が解消してできたと考えられる川辺郡は、猪名川に沿って、はるか能勢山中から大阪湾に達するといった、細ながい郡域を占めている。現在の猪名川町・川西市・伊丹市・尼崎市の各市域に及び、宝塚市の武庫川左岸域もこれに含まれている。郡域がこのように山間部と平野部にまたがるため、川辺郡条里は山間部条里と平野部条里とに区別され、平野部条里も武庫平野のほぼ中央部に伊丹段丘(洪積台地)があり、その北部に接して昆陽池を中心とした低湿地帯が横たわるため、中央の無条里地帯をはさんで二つのブロックに区分される。すなわち川辺南条と川辺北条がこれである。川辺郡の郡界も、武庫郡の場合と同様に、郡界の移動がなされているため、豊島郡条里との接続が複雑で、条里基準線も確定しにくい。郡界から数えて四条の阡陌線のみは、川西市に接する能勢の山麓に達しているので、あるいはこれを基準線とした可能性もある。しかし条里の進行方向は、全部すべて東端に基準線を設定した場合のルールによっている。そうすると川辺南条は一条~七条で、武庫東条に接することになる。川西・伊丹・尼崎諸市域に属する川辺南条については、それぞれの市史に書かれたものを参照してもらうことにして、ここではもっぱら宝塚市域の川辺南条にふれることにする。
今、川辺南条が一条から七条に及ぶことを述べたが、そうとすると宝塚市域では旧長尾村の口谷がこのなかに入る。川辺南条の阡陌線方向は西偏四度であるが、この付近ではむしろ西偏二六度の方向をしめす川辺北条に一致する傾向がみられ、はたしてこの付近まで川辺南条がのびて、七条を形成していたか疑問である。さきにもふれた武庫北条の一里、二里といい、豊島条里と川辺南条の接続といい、二つの条里が理論的には重複した形になって存在するのをどう解釈したらよいのか、今後の検討を必要とする。
川辺北条として、遺構のうえでも地名についても、また史料の点でも明白なのは旧長尾村丸橋以西の条里である。すなわち満願寺文書のなかに「摂津国河辺北条山本松尾御庄内地」とあることから、現在の山本が川辺北条にあって京都松尾神社の荘園であったことがわかり、また池田市の寿命寺文書に「山本庄十四条三里七坪号細間利」としるされているので、山本が川辺北条十四条三里のなかにあったことも明らかとなる。この山本荘の「細間利」という地名は、現在も「細廻り」として小字名に残存しているから、ここが「七ノ坪」にあたることもわかり、条里復元の重要な手がかりとなる。遺構のうえでは確かに丸橋以西が明白で、口谷付近から以東は不鮮明になるのが実情であるにもかかわらず、史料のうえでは満願寺文書のなかに「河辺北条加茂村十二条二里七坪内也」と書かれているので、口谷を含めてやはり川辺北条十二条が存在していた可能性もある。こうして条里呼称がわかるとともに、平井に「七ノ坪」、山本に「五ノ坪」・「八ノ坪」が、伊丹市の荒牧に「三ノ坪」・「九ノ坪」、米谷に「一ノ坪」・「二ノ坪」・「五ノ坪」・「十一ノ坪」、安倉に「三ノ坪」・「五ノ坪」・「七ノ坪」・「九ノ坪」が残っているので、それによっていちおう川辺北条の復元ができる(図90)。
遺構の不鮮明な十二条は別として、川辺北条の十三条から十六条はその阡陌線が明確に西偏二六度をしめしつづけるが、十七条・十八条のみは西偏二四度となり、明らかに別条里の統合されたもののようである。事実、さきに掲げた米谷の一・二・五ノ坪と十一とは西偏二四度の阡陌線で形成される大区画の条里坪づけに一致する。このことは何を意味するのであろうか。それはしばしば述べたように異なる時期におこなわれた阡陌開発の結果が、八世紀の条里制のもとで統一され、川辺北条として一括されてしまったからであろう。
この付近のことにふれた史料として富田仙助氏文書のなかの『太政官符案』に「在摂津国河辺郡十六条一二里十七条十八条、既在坪付券文」がみえる。十六条には一里と二里の記載があるが、十七条・十八条は里の記載がない。実際には十七条が三里、十八条が一里あるからおかしなことである。ただすでに武庫北条のところで、この付近が川辺北条と重複すると述べたが、そのような重複もあって太政官符があえて里を入れなかったものであるのか、いずれにしても今後研究を要する条里である(図89)。
最後に、川辺郡の山間条里についてふれておこう。宝塚市域の場合には旧西谷村の条里がこれにあたる。山間条里といわれるものは、どことも平地のとぼしいために小規模であり、わずか数坪にすぎないものもみられる。そのうえに区画や地割がいちじるしく不規則であるために条里の復元が困難となる。
旧西谷村の条里も例外ではなく、わずかに大原野に小字名として「一ノ坪」を残すのみで、区画も地割も何ら条里制らしきものをみいだせない。したがってここの条里は川辺郡のなかでもまったく独立して別個に取りあつかわれたものか、それとも条里制とは無関係に中世以後こうした地名をつけたものか、そのいずれかであろう。同じような例を、川西市の畝野でみている(川西市史第一巻)。