古代の宝塚に住んでいた人びとの生活を考えるにあたって、まずその人びとが当時の律令政府から、どのような税負担を負わされていたかをみることから入っていこう。
律令政府は、公地公民制度によって班田収授の法、つまり六年ごとに作成する戸籍を台帳として全国の耕地を班給する法により、六歳以上の男子に二段、女子には三分の二にあたる一段一二〇歩(このときの一段は三六〇歩)の土地を口分田として与えた。当時の農民は、この口分田の収穫のだいたい三%にあたる租稲(そとう)を土地税として出していた。
つぎに、調(ちょう)・庸(よう)は人頭税と考えられるもので、一六歳以上二〇歳までの男子(少丁(しょうてい)のちの中男(ちめうなん))および、二一歳より六〇歳までの成年男子(正丁(せいてい))と、六一歳より六五歳までの男子(老丁(ろうてい))や、軽度の廃疾者(残疾者)の負担すべきものとされていた。調は主として布帛(ふはく)類を納めるが、他に鉱産物・塩・海産物などの地方特産物があった。庸は一年のうちに一〇日間の歳役(さいえき)に徴発することをたてまえとして、代わりに庸布を納める制度であった。
租・調・庸以外の負担としては、雑徭(ぞうよう)といわれる力役があった。これは地方国司の権限の下に臨時の雑役に徴発されるもので、規定では最高限度が六〇日までとなっていたが、国司は六〇日間いっぱい農民を使役したと思われ、当時の農民にとって大きな負担であった。また成年男子に対する兵役があり、その兵士のなかに衛士(えじ)・防人などの勤務があった。
このように税として定められたもの以外に、雇役(こえき)と出挙(すいこ)の制度があり、これも農民にとって大きな負担であった。
雇役は、食料・賃銀を支給して力役に従事させるもので、有償労働の一種であり、大規模な土木工事などに利用された。しかし、当時雇役に徴発された農民が、たびたび逃亡している例から考えて、賃銀が支給されたとしても、それは労働に比べると、きわめて低い賃銀であったようである。
出挙には公出挙と私出挙の二つがあった。公出挙は、国家が種もみを農民に貸し与えて利息を取る制度で、春に種もみを貸しつけて、秋に三割から五割の利息稲とともに、返済させるものである。一町に必要な種稲は二〇束で、これより収穫できる稲は五〇〇束と考えられる。利息を五割とすれば三〇束返還すればよいことになる。そうすれば、租の分を差しひいても相当の量が残るところから、公出挙は貧民救済の一種であるとの説もある。
しかし、現在残された史料からみると、政府は地方財政の財源の大部分を公出挙の利稲でまかなうことにしており、貸しつけという点についても、種もみ用以外に貸したり、春と夏の二度に貸したり、種まきとは関係なく貸しているので、実際には租税の一種と考えた方がよいようである。