このように多くの税を義務づけられることは、宝塚地方の農民も変わりなかったが、古代のこの地方の人びとの具体的な生活を知るための史料は、ほとんど残っていない。わずかに天平八年(七三六)の「摂津国正税帳」の一部が残っているので、その記載事項を参考にしながら、当時のこの地方の農民の生活を考えてみよう。
正税帳というのは、国ごとに作成され、国内の各郡ごとに、徴収した租の量、支出した項目と支出量、あるいは毎年の行事の費用や農民生活に関する事がらを記載する帳簿なのであるが、「摂津国正税帳」は東生、西生両郡の記載の一部を残すだけで、他の部分は欠けてしまっている。しかしこの記述から宝塚地方の農民の様子を推測することは不可能ではないと思われるので、検討していきたい。
まず、東生(ひがしなり)郡のこととして、つぎのような記事がある。
天平二年未納本漆佰陸拾肆束[債稲死百姓一人免稲十一束]遺漆佰伍拾参束
天平三年未納本壱佰漆拾陸束
天平四年未納本伍佰玖拾弐束漆把[債稲死百姓二人免稲廿八束六把] 遺伍佰陸拾肆束壱把
この事項は、前にもしるした、農民に貸しつけた公出挙稲の返済についての部分で、文中「未納」とあるのは、その年のまだ返済されていない貸付稲のことで、各年の総計を出したものである。
天平二年度の貸付のうち、七六四束が未返済であったが、そのなかで百姓一人が死亡したために、一一束が返済免除となったので、七五三束が返済されていないことになる。
つぎの天平三年度については、一七六束が返済されておらず、最後の天平四年度分をみると、百姓二人が死亡して、二八束六把が返済免除となり、五六四束一把が返済されていないのである。
この天平二・三・四年度分の未納額を総計すると、一四九三束一把が返済されておらず、単純に計算して、死亡によって返済免除となった額の平均一三束二把で割ると、約一一三人が返済していないことになる。機械的な計算にすぎないかもしれないが、米に換算して三斗弱程度の量を返せない農民が東生郡だけでも延べ一一三人ほどいたということになろう。このように毎年の出挙稲を返済できない者は、けっして東生郡だけではなく、宝塚地方の含まれる、川辺郡や武庫郡にもいたと考えてよいと思う。
また、西生(にしなり)郡の部分につぎのような事項がある。
高年鰥寡〓独等人伍佰拾参人[九十歳已上十三人八十歳已上〓四人七十歳已上二百三人鰥寡〓独篤疾廃疾不能自存等二百卅五人今病七人病僧十一人]
給穀肆佰伍拾玖斛壹斗
この記事は、高年者や身よりのない生活困窮者などに生活扶助の一部として、稲穀を支給した記事である。その内訳をみると、与えられた者には、高年者として九〇歳以上の者一三人、八〇歳以上の者四四人、七〇歳以上の者二〇三人の計二六〇人があるが、これは高年者に対する優遇政策と考えられよう。
つぎに鰥寡〓独(かんかけいどく)という項があるが、鰥は六一歳以上で妻のない者、寡は五〇歳以上で夫のない者、〓は一六歳以下で父のない者、独は六一歳以上で子のない者をいう。いうまでもなく、どの場合も経済的困窮者であることが、扶助を受ける条件となっていた。
鰥寡〓独のつぎの篤疾廃疾は身体障害者のことで、廃疾とは、白痴(はくち)、〓(あ)、小人、腰脊(ようせき)の折れた者、一肢(し)の無い者などのことであり、篤疾は、この廃疾の者より重い状態で、癲癇(てんかん)・狂人・二肢の無い者、両眼の見えない者などをいった。
廃疾のつぎの「不能自存」については、いろいろ問題があるが、不能自存のつぎの「等」の字は、不能自存の語句が鰥寡〓独以下廃疾までの語句すべてにかかるとするならば、「鰥寡〓独篤疾廃疾等不能自存」と書くと思われるので、不能自存を独立した項目とみて、それ以前の項目に入らぬ者で、生活に困窮している者と考えた方がよいであろう。
さて、この西生郡において、高年者以外に生活困窮者が二三五人もいたということは、当時の農民の生活状態が安定していなかったことを推測させる。
いうまでもなく生活困窮者をつくりだす原因として、天災や疫病(えきびょう)のあったことは考えられるが、それにもましてまえに述べたような国家からの諸負担が大きな原因となったと思われる。このような困窮した農民が川辺郡にも多数存在したことは、行基が為奈野の地に〓独田一五〇町を設けて救済にあたったといわれることからも推測される。
行基の伝記の一つである『行基年譜』によれば、天平十三年(七四一)に聖武(しょうむ)天皇が泉橋院に行幸したさい、行基はインドの給孤独園(ぎっこどくおん)にならって、身よりのない者の収容所の建設を願ったことがみえる。この願いは許可されて間もなく収容所が建てられ、同時に収容者の生活をまかなうために〓独田とよばれる田一五〇町が設けられた。ただこの田からの収穫の一部は、同じく行基が川辺郡に設置した、調庸運搬の役夫の宿泊施設である昆陽布施屋の維持費にもあてられたと考えられるが、行基がこのような施設を設けたことは、そうした施設を必要とする人びとが、この地方にかなりいたことを物語るものであろう。何度も述べているように、班田農民の生活はかなりきびしかったと考えられ、宝塚地方に住んでいた人びとも例外ではなかったと思われる。