農民の階層

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ところで、この時代の農民は、すでにしるしたように国家から規定額の口分田を班給され、この口分田の耕作を生活の中心においていた。しかし、当時班給された口分田だけでは生活をじゅうぶんにまかなうことができなかったので、農民のなかには、口分田だけを耕作するのではなく、他に開墾地を広げたり、また手工業生産をおこなうことによって生活を維持する者があった。やがてこのようなことを積極的におこなうことによって、財産を貯える者が出て、農民層のなかに階層の差がよりはっきりと出てくるのである。

写真115 昆陽寺の山門(伊丹市)


 現在一般的に当時の農民は、富農層とよばれる農民、中堅農民、貧窮農民の三階層に分けられるとされている。富農層といわれる農民は、地方の郡司層に代表されるが、彼らは多くの動産や不動産、また労働力としての奴婢を所有していた。そして奴婢や支配下の農民を使役して土地を開墾し、あるいは既述の私出挙をおこなうことなどによって財産を増したのである。彼らは、もし多大の労働力が必要となれば、その土地における自分の勢力を利用して安い賃銀で農民を集めることもおこなった。
 摂津国におけるこうした富農層の例を挙げると、武庫郡大領日下部宿禰浄方(くさかべのすくねきよかた)や、能勢郡大領神人為奈麻呂(みわひとのいなまろ)などの名が知られる。日下部宿禰浄方は銭一〇〇万と杉材一〇〇〇枚を献上して、天平神護(てんぴょううじんご)二年(七六六)九月に従六位上から外従五位下に昇叙され、神人為奈麻呂は職務に忠実、そして農民の生活に配慮をおこなったということで、延暦四年(七八五)一月に外正六位上から外従五位下に昇叙されているのである。
 中堅農民とよばれる階層に属する農民は、前の富農層が所有するほどの財産はもたないが、班給された口分田以外に若干の墾田や牛馬などの家畜を飼育する、余裕のある農民である。しかし当時の農業経営は、天候などの自然条件に左右されることが多く、旱ばつや風水害によって作物に影響を受けることがあり、その結果中堅農民層の者が一段したの貧窮農民に没落することもあった。しかし、なかには土地を開墾する以外に手工業生産をおこなうことによって財産を増し、富農層になる者もあったと思われる。
 貧窮農民とよばれる農民は、口分田の班給を受けているが、その収穫だけでは生活できず、賃租耕作といって、土地所有者に土地代を払って、耕地を借りて耕作したり、低賃銀で上層農民に雇われたり、また国や富農層から出挙によって、稲を借りて生活をおこない、あるいは富農層に国家の税を肩がわりしてもらい、代わりにその労働力として使役されることもあった。
 しかし、まえにしるしたように天災によって被害を受けることも多く、そのような時にいちばん苦しむのは、この貧窮農民であった。また国家の諸負担のうち、兵役・雑徭・調庸物資運搬などの重い負担がこの階層の農民にかけられることも多く、家族を捨てて逃亡した者もあるほどであった。
 この時代の農民は、だいたいこうした三階層によって構成され、それが当時公民とよばれた一般農民であった。しかし、この一般農民のしたに、さらに奴婢である賤とよばれる身分があった。
 奴婢には、陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・家人(けにん)・公奴婢(くぬひ)・私奴婢(しぬひ)の五種があった。簡単にそのちがいをしるすと、陵戸は、天皇・皇后、その他皇族の陵墓を守る任務をもち、官戸は国家所有の奴婢で、諸官庁の諸役に使役された。家人は、民間所有の賤であるが、奴婢よりは高い身分とされ、売買されることは禁止されていた。公奴婢は国家所有の奴婢、私奴婢は一般農民私有の奴婢である。奴婢は財産の一部であり、売買されることもあって、富農層のなかには多くの奴婢を私有する者もあった。奴婢の価格について、霊亀元年(七一五)には奴一人六〇〇文、婢一人四〇〇文と、価格が定められているが、年令や容姿、あるいは修得している技能などで価格に高低があった。
 摂津地方の農民が私有していた奴婢についてみると、天平勝宝三年(七五一)の「東大寺奴婢帳」に、川辺郡坂合郷(さかあいのごう)の秦乙麻呂(はたのおとまろ)の息子が、自分の奴二人を東大寺に寄進したことがみえている。また天平勝宝八歳(七五六)には、東大寺から解放された奴婢の一人が、川辺郡郡家郷の凡川内直阿曇麻呂(あずみまろ)の戸の所属となったことが知られる。
 ではこうした農民は当時どのような農業生活を送っていたろうか。