すでに述べた農民の生活の基盤は、農業生産、とりわけ米の生産であった。いま、当時の農業の様子を『万葉集(まんようしゅう)』に収められている歌を参照しながらみていくことにしたい。もちろん、これらの歌は宝塚地方の農民が歌ったものと断定はできない。しかし、これらの歌からこの地方の農民の農業労働を知ることは、けっして不可能ではなかろう。
まずあげられるのは、水稲耕作である。当時耕地としては、水田・陸田・園地などがあり、陸田は雑穀栽培地をさし、園地は本来桑漆種殖の地であるが、蔬菜を栽培する地でもあった。水稲には早稲(わせ)・晩稲(おくて)の二種類あったことが推測されている。
水稲の耕作についてみると、まず春には荒起こし、代掻(しろか)きの作業がある。『万葉集』には、この作業を詠んだつぎの歌がみえる。
金門田(かなとだ)を荒掻きま斎(ゆ)み
日が照れば雨を待とのす
君をと待とも(三五六一)
そして水田を整えると種まきの作業である。これには種籾(たねもみ)を本田に直播(じきまき)したか、苗代に種まきをして苗を育ててから本田に植えたかという問題があるが、奈良時代には後者の方法が一般的に広まっていたと考えられる。苗代田をつくったことや、田植についても『万葉集』の歌がある。
言出(ことで)しは誰(た)が言(こと)なるか小山田の苗代水の中淀にして(七七六)
衣手(ころもで)に水渋(みしぶ)つくまで植ゑし田を引板(ひきた)わが延(は)へ守れる苦し(一六三四)
などがそれである。しかし直播の方法も残っていたことは、つぎに掲げるような歌から知られる。
吾が蒔ける早田(わさだ)の穂立ち造りたる蘰(かづら)ぞ見つつ偲ばせ吾が背(一六二四)
住吉(すみのえ)の岸を田に墾(は)り蒔きし稲さて苅(か)るまでにあはぬ君かも(二二四四)
水を多み上田(あげ)に種蒔き稗を多み擇擢(えら)えし業(なり)ぞ吾が独り宿(ぬ)る(二九九九)
この田植の後には除草がおこなわれた。もう季節は夏に入っている。これもつぎのような歌がある。
安波(あは)田に生(お)はる多波美蔓引(たはみづらひ)かばぬるぬる吾(あ)を言(こと)な絶え(三五〇一)
稲の生育に必要な肥料については、当時一般的には柴草を田に敷きこむ方法がおこなわれていたようであるが、他の肥料については不明である。
さて、秋になって収穫の時期がやってくる。稲の収穫については、穂首刈りか根刈りかの問題がある。「養老令」の田令などの規定では、稲は穂首をつんだ穎稲(えいとう)が単位とされており、正税帳などの史料には、穀稲の形で記載されている。しかし脱穀の道具として、穂首からの脱穀用具である臼(うす)と杵(きね)のみがみられることなどから、当時一般には穂首刈りがおこなわれ、根刈りはおこなわれても一部に限られていたと考えられる。
刈取・脱穀そして倉に納める作業がつづき、農民は手をやすめる余裕もないが、これらについても『万葉集』に詠(よ)まれている。
秋田苅る仮廬(かりほ)もいまだ壊(こぼ)たねば雁が音寒し霜も置きぬがに(一五五六)
稲舂(いねつ)けば皹(かが)る吾(あ)が手を今夜(こよひ)もか殿(との)の若子(わくご)が取りて嘆かむ(三四五九)
新墾田(あらきだ)の鹿猪田(ししだ)の稲を倉に蔵(つ)みてあなひねひねしわが恋ふらくは(三八四八)
ここで耕作用具についてみると、鉄製のくわやすきが一般的に普及しはじめていたが、まだ貴重品であった。その証拠には、くわが賞として与えられた記録がある。また牛馬などの家畜も一般農民は所有することが困難で、前に述べたような富農層が牛馬を多く所有していたようである。
以上、水田の耕作、収穫の作業についてしるしてきたが、陸田(畠)の耕営はどうであったろうか。陸稲については、史料がないため不明であるが、麦・粟などの雑穀類がさかんに栽培されたようである。当時しばしば出されている陸田経営を奨励する詔勅のなかには、粟・大麦・小麦・大豆・小豆・蕎麦(そば)などの品目があげられている。
蔬菜類についてみると、「賦役令(ぶやくりょう)」第一条、第二九条から麻・胡麻油(ごまゆ)・荏油(えあぶら)・藍(あい)などが調として貢納する品物のなかに含まれており、また「延喜内膳式」には蒜(ひる)・韮(こみら)・葱(ねぎ)・薑(はじかみ)・蕗(ふき)・瓜(うり)・芋(いも)などの品目がみえるため、これらの栽培が知られる。
では、こうした農業生産のための耕地には、当時どのような種類があり、またそれはどのような性質の耕地であったろうか。