この時代の耕地についてみると、まずあげられるのは水田である。水田は、田品すなわち土地の質によって上田・中田・下田・下々田に分けられ、『延喜式』の法定穫稲数によれば、一町あたり上田五〇〇束、中田四〇〇束、下田三〇〇束、下々田一五〇束の収穫があることになっている。
しかし実際にこれだけの収穫があったのか、また農民生活の基となった口分田の田品はどうであったかなどは不明である。ただ口分田の平均収穫は、町あたり四〇〇束ほどという説が出ており、これはだいたい認められているようである。
水田のほかに耕地としてしられるのは、陸田・畠(はたけ)・園地などである。
さきにもしるしたように陸田と畠は、ともに粟・稗・麦・豆等の雑穀を栽培する耕地であり、陸田は水田に、畠は田に対応することばとして使いわけられたようで、実体は同じものであったろう。園地は法令の規定では、桑や漆を栽培すべき地となっているが、この園地で蔬菜類の栽培のおこなわれたことも考えられる。しかし当時の農民が土地の名称と作物の種類を区別して栽培したとは考えられず、畠・園地ともに雑穀・蔬菜類を栽培したことが想像される。
当時農民生活の基礎は口分田を中心とする耕地であり、その耕地は班田制によって支給されたことは既述の通りである。班田制は前述のように六年に一度班給されることになっていた。この六年一班の制度は、八世紀の間はほぼ規定通り実施されたようであるが、のちにふれるように奈良時代末期から崩れはじめた。
ところで、奈良時代の班田の有様についてみると、一人の農民の所有田が、かならずしも一カ所にまとまらず、各所に散在しているいわゆる錯圃(さくぽ)形態が指摘されている。そのために口分田の所在地が耕作者の居住地からかなり離れており、はなはだしいものでは、遠く他郡に班給されたことがある。しかし、当時の農業技術の段階では、ひんぱんに耕地に行くことはできなかったと思われ、また賃租のような耕作形態によって、遠くの耕地は他人に耕作させたと思われる。