摂津国の班田事情

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 班田制が摂津地方の農民にどのような影響を与えたかについてしるした史料はみられないが、つぎに掲げる『万葉集』所載の歌から、当時のこの制度の状態を推測することができる。
    天平元年己巳、摂津国の班田の史生丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)自ら經(わな)ぎ死(まか)りし時、
    判官大伴宿禰三中(みなか)の作る歌一首
  天雲(あまぐも)の 向伏(むかふ)す国の 武士(もののふ)と いはゆる人は 皇祖(すめらぎ)の 神の御門に 外(と)の重(へ)に 立ち候(さもら)ひ 内(うち)の重(へ)に仕(つか)へ奉(まつ)り 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(おや)の名も 継ぎゆくものと 母父(おもちち)に 妻に子等(こども)に 語らひて 立ちにし日より 垂乳根(たらちね)の 母の命(みこと)は 齋瓮(いわひべ)を 前にすゑ置きて 一手(かたて)には 木綿(ゆふ)取り持ち 一手には 和細布奉(にぎたへまつ)り 平らけく ま幸(さき)くませと 天地の 神祇(かみ)を乞ひ祷(の)め いかならむ 歳月日にか つつじ花香(にほ)へる君が 牛留鳥(くろどり)の なづさひ来むと 立ちてゐて 待ちけむ人は 大君の 命恐(みことかしこ)み 押(お)し照(て)る 難波の国に あらたまの 年經(ふ)るまでに 白栲(しろたへ)の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて往にけむ 時にあらずして(四四三)
 この歌は、天平元年(七二九)摂津国の班田司史生丈部龍麻呂が自殺した時に、その上司であった大伴宿禰三中が詠んだものである。『続日本紀』によれば、天平元年十一月七日に京及び畿内の班田司を任命しているから、龍麻呂の自殺の時期はこの日より後になろう。自殺の動機については不明である。
 ところで、同じく『続日本紀』同年三月二十三日条に「口分田を班つこと、令によって収授するに、事において便ならず、請う悉くに収めて更に班たんことを」という太政官奏が出され、これが許可になったことをしるしている。この太政官奏の意味は、この年の班田は、それまで令の規定によって班給されていた口分田を、収公して再分割、班給しようとするものであった。
 丈部龍麻呂自身の経歴は不明であるが、丈部氏は東国地方の氏族といわれ、歌の内容からしても、家族とわかれて、はるばる東国から出てきて官人の列につらなり、衣服を洗う間もなく任務に奔走していた人物であろう。
 そして、天平元年に口分田を収公して再分割のうえ班給するという事態になった時、班田司の役人である龍麻呂は、自分たちがおこなう再分割が、一般農民に与える影響の大きさを感じ、と同時に東国にある自分の家族が置かれている状態をひしひしと感じたのではあるまいか。龍麻呂が地方小氏族の出身であり、班田司の末端にいたことから、家族の置かれた悲惨な状態を感じて自殺した、ということは一つの憶測であるが、当時の班田がかならずしも農民の利益ということをじゅうぶんに考えたものではなかったことは想像できるだろう。
 前の天平元年十一月七日に京および畿内の班田司を任命した記事につづいて、親王、五位已上の官人の位田・功田・賜田・寺家神家の土地は収めなくともよいとしるされており、いったん班給した田を収公して再配分するといった政策の影響をまともに受けるのは、一般農民がほとんどであったことを考える必要があろう。