万葉集に詠まれた宝塚地方

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さて最後に、この地方の農民の生活の一端を知るうえで『万葉集』のなかに、この地方がどのように歌われているかに注目してみよう。
 『万葉集』収載の歌のうち、摂津国に関するものはわずかであり、そのなかでも宝塚地方に関係のあるものといえば、近くの猪名川・猪名山・猪名野あるいは武庫川を題に詠(よ)んだものがほとんどである。
 猪名野は、広くみるとき現在の池田・豊中・宝塚・伊丹・尼崎・西宮の各市にわたる広大な原野で、大和から西国に下る路や有馬に通じる路もこのなかを通っていたと考えられる。
 この猪名野についての歌をみると、作者は不明であるが、摂津国で詠まれたという
  しなが鳥猪名野を来れば
  有間山夕霧立ちぬ
  宿は無くて(一一四〇)
 との歌があり、これは鳰鳥(にほどり)の群れ遊ぶ猪名野を通りがかった旅人が夕霧の立ちこめた有間山をみて、この夕霧のなかに泊る宿もない寂しさを詠んだものといわれている。
 同じく猪名野を詠んだ高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の
  吾妹子に猪名野は見せつ名次山角(なすきやまつぬ)の松原いつか示さむ(二七九)
 の歌には、名次山(西宮市名次町付近)や角の松原(西宮市松原町付近)などが猪名野の景勝の地として詠まれている。

写真123 名次神社(西宮市)
境内に名次山の碑がみえる


写真124 松原神社(西宮市)角の松原はこの付近とされている


 猪名山を詠んだ
  しなが鳥猪名山響(とどろ)に行く水の
  名のみ縁(よ)さえし隠妻(こもりづま)はも(二七〇八)
 の歌からは、猪名山に音をひびかせて流れる猪名川の姿が想像される。
 さらに猪名川を詠んだものに
  かくのみにありけるものを猪名川の
  沖を深めてわが思(も)へりける(三八〇四)
 の歌があるが、この歌にはつぎのような詞書がある。
  昔者壮士あり、新に婚礼を成しき。いまだ幾時も経ず忽に駅使となりて遠き境に遣さる。公事限あり、会ふ期日無し。ここに娘子、感慟悽愴(せいそう)して、疾疥(しつかい)に沈み臥しき。年を累ねて後、壮子還り来て覆命既に了りぬ。すなはち詣りて相見るに、娘子の姿容疲羸(ひるゐ)甚だ異にして言語哽咽(こうえつ)せり。時に壮士、哀しび嘆き涙を流して、歌を裁(つく)りて口号(くちずさ)みき。
 この詞書によると、新婚まもない夫が、駅馬を与えられるほどの公務によって遠方の地に派遣され、何年かののち、ようやく帰国した。すると妻は夫の帰りを待ちわびるあまり病に臥し、やせ衰えて死にそうになっていた。その姿をみた夫が嘆いて詠んだ歌であるという。
 歌の意味は、自分の妻に対する想いの深さを、猪名川の深さにたとえているわけであるが、心の深さにたとえられるほど、猪名川が人びとの生活のなかに入りこんでいたと考えられる。この詞書にあるような事実があったか否かは不明であるが、もし他の地域に住む人が猪名川をたとえに詠んだとすれば、それだけ猪名川が一般に知られていたことになろう。

写真125 猪名川上流
猪名川町万善付近


 武庫川を詠んだものには、作者不明であるが、
  武庫川の水脉(みを)を早みか赤駒の足掻く激(たぎち)に濡れにけるかも(一一四一)
 の歌がある。これは武庫川の水の流れの速いために、乗っている駒の足掻きのしぶきにぬれたという意味の歌であり、武庫川が急流であったことが想像される。
 このようにみてくると、宝塚地方をとりまく周囲には、『万葉集』に詠まれているような自然があり、それが当時の人びとの生活とともに存在していたということがいえるであろう。