古代の宝塚地方が含まれる川辺・武庫・有馬の各郡の神社をみていくと、いわゆる式内社といわれる神社がかなりある。以下これら神社の性格についてしるしていきたいと思うが、そのまえにまず当時の神社一般の成立と律令国家による統制についてしるす必要があろう。
農耕とくに水田耕作を中心とする社会では、人びとは定住性をもち、集合性が強くなって、社会結合を地域的なものにし、同時に血縁的なものにするといわれるが、日本の古代社会も同様に農耕を中心とする地域的な集落を形成し、血縁的な氏集団が組織された。この氏集団や集落では共通して祭る神をもち、その神を祭る場が設けられた。氏集団や集落が祭る神がみは氏神とか産土神(うぶすながみ)といわれるものであり、それらを祭る場がやがて神社に発展するのである。
ところでこうした古代社会においてもっとも重要なのは祭りである。祭りは当然のことであるが農耕生活に密着していた。農耕生活では、春の種まきが農事のはじめであり、秋の刈りあげが農事のおさめであるという生活のおりふしができるが、このおりふしが神迎え・神送りの農耕の祭りとつながって、やがて神を祭るさいの基本的なパターンとなっていった。それゆえ神がみを迎え、神がみを送る、つまり神がみの去来は、農耕生活のうえで重要な関心事となり、この祭祀儀礼は伝統的に維持されていった。
しかしこうした神がみが去来するという考えの段階では、神がみが常住する場所にあたる社殿をもつ神社というものはまだできていなかったであろう。ところが人びとは神がみが人里近い場所に鎮座して、その神が常に恩恵を与えてくれることを望み、一定の場所が祭場としてたびたび使用されるようになり、人びとはそこを神聖な場所として特別に扱った。こうして神の常住する場所としての社殿をもつ神社が建てられたのであろう。神がみが常住すると考えることや、神社が村のなかに建てられるようになったことについては、大陸から輸入された仏教が、寺院を建て、そこに仏像が常に安置されていることと関係があるという考えかたもある。
このように、神社の成立は神についての新しい考えかたが発生してくるのにともなって起こったのであるが、同時に農耕生活に密着した祭りの方は、村落共同体の集団的な行事であった。農耕の順調な進行は村落共同体の共通した利害関係であり、それの保障を目的とする祭りをおこなう司祭者は、同時に村落共同体の統制にも重要な役割をになう首長でもあった。神社は祭りをおこなう場所であるとともに、政治をする場所でもあった。政事と祭事がともに「まつりごと」と訓(よ)まれ、共通していることからも、その性格がわかるであろう。そしてこのような神社の性格は、国家によって神社が統制されるようになったのちも受けつがれていった。では、神社や祭祀が、国家によって統制を受けるようになったのはいつごろからであろうか。それは日本における古代国家の成立、さらには展開という問題と密接な関係があり、簡単にはいえない。しかし律令的な祭祀や天神と地祇(ちぎ)、天社と地社という神と社の分類・区別がなされ、国家的な統制と掌握がはっきりするようになったのは天武期になってからであろう。この時期に成立した飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)の制度に組みこまれて、いわゆる神祇制度としての明確な形をととのえていったと考えられている。そしてそれはつぎの大宝令に受けつがれ「神祇令」として完成したのであった。
日本の律令国家は、神がみを祭るのは国家のおこなう重要な事がらであるとのたてまえから、神祇令を定め、神祇官を設けて、その基本的な姿勢をしめした。そして神祇官の祭る四季の祭り(これを四時祭(しいじさい)という)について定めるとともに、神社を神祇官の統制のもとに組みいれて、各地方の神社を官社として神祇官の台帳に登録したのである。『延喜式』の神名帳は、このような国家的統制下におかれた神社がそこにしるされているのである。それがいわゆる式内社である。しかし、この制度は、律令国家が農民の祭る神がみを国家の統制下におき、同時にそれを通して農民の農村生活をも国家が干渉していったことを物語るものであった。