摂津国の式内社

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摂津国の式内社はすべてで六二社ある。また各神社に祭られている神がみの数は七五座あって、摂津国の管内にある各郡別の内訳は表10のようになっている。そのうち宝塚地域に関係のある川辺・武庫・有馬の各郡の神社の合計は一四社である。これらの神社名を『延喜式』の神名帳の記載順にしるすと、川辺郡には伊佐具(いさく)神社・高売布(たかめふ)神社・鴨(かも)神社・伊居太(いこた)神社・多太(ただ)神社・小戸(おべ)神社・売布(めふ)神社の七社がある。また武庫郡内には、広田神社・名次(なつき)神社・伊和志豆(いわしづ)神社・岡太(おかだ)神社の四社があり、有馬郡内には有間(ありま)神社・公智(くち)神社・湯(ゆ)泉神社の三社がある。ここではこれらの神社のうちの宝塚地域と関係のある神社についてしるすことにする。
 

表10 摂津国式内社分布

郡名祭神座数神社
住吉10122215
東生3143
西成1011
島上0333
島下5121713
豊島2354
川辺0777
武庫2244
菟原0333
八部2133
有馬1233
能勢0333
26497562

 
 売布神社と高売布神社  川辺郡内の式内社のなかで、宝塚市内にあるのは売布神社だけである。現在の米谷に鎮座しているこの神社は中世以来、久しく貴布禰(きふね)神社とよばれていた。祭神については、『高橋氏文』にしるされている若湯坐連(わかゆえのむらじ)の始祖で、物部氏の一族である意富売布連(おおめふのむらじ)であろうといわれている。『旧事紀(くじき)』の天孫本紀に「宇麻志麻知命(うましまちのみこと)七世孫大〓布命(おおめふのみこと)、若湯坐連等祖」とみえることからも知られる。同じ川辺郡の式内社に高売布神社があるが、神社の名の似かよっているところから、売布神社との関係が推察されてくる。
 高売布神社は川辺郡の式内社でも最も北部に位置し、現在三田市北郊、羽束川の流域の酒井の地に鎮座している。この神社については史料がなく、式内社として知られるだけであるが、売布神社の祭神である若湯坐連の氏神である意富売布連は、大〓布命ともしるされていて、「意富」も「大」も高売布神社の「高」と同じ意味とみられるから、これら神社の祭神は同一神である可能性が強くなる。そうだとすると、意富売布連を氏神とする若湯坐連一族はこの地方にも居住していたことを物語るであろう。

写真127 売布神社


 鴨神社および多太神社  川辺郡内の式内社で宝塚市域に接する地域にある神社に、鴨神社と多太神社がある。鴨(加茂)神社は古くは川辺郡山本郷内にあったと思われるが、現在は川西市加茂の地に鎮座している。またいまは祭神を別雷神(わけいかずちのかみ)としているが、これは京都にある加茂神社の祭神で、この神を祭るようになったのは後世のことであろう。むしろこの地方の氏族と思われる鴨君または鴨部祝(かもべのはふり)の祖先神が祭神であるとみる方がよいのではなかろうか。ただこの鴨君や鴨部祝については、『姓氏録』の摂津国神別に鴨部祝が賀茂朝臣と同祖であり、大国主命(おおくにぬしのみこと)の後裔(こうえい)としるし、鴨君については摂津国皇別に日下部(くさかべ)宿祢と同祖で、彦坐命(ひこいますみこと)の後裔とみえるが、他にはくわしいことはわからない。
 多太神社は現在川西市平野に鎮座しているが、古くはこの地域は川辺郡多田庄平野村にあたり、『和名抄』にみえる川辺郡大神郷の地に比定され、宝塚市の東北部に接する地域にあたるが、その地名とも関係があってか、平野明神とも称している。この神社の祭神は京都の平野神社と同じ神が祭られているが、ほかに伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊二座をも祭っていて、多太神社の祭神はもとはこの二神であろうといわれている。しかし式内社ではこの神社の祭神は一座となっていて、二座とするのは最初のものとは思えない。とするとこの神社の祭神は別であったことになる。
 多太神社の鎮座する地は、すでにしるしたように川辺郡大神郷にあたるが、この地方は『姓氏録』の摂津国神別にしるされている神人氏の居住地と考えられる。この神人氏は『姓氏録』によると、大国主命の五世の孫にあたる太田々根子命を祖先としていることや、大和国葛上郡にある式内社多太神社が、タダまたはオホタと訓んで、賀茂朝臣、三歳祝(みとしのはふり)らの祖神太田々根古命の名によるといわれていることなどから、平野の地の多太神社も同じく太田々根子命を祭っていたと考えてさしつかえないのではなかろうか。
伊和志豆神社  宝塚市内に分布する神社は数すくなく、すでにしるした売布神社のほかには、この伊和志豆神社があるだけである。現在宝塚市伊孑志にあたる地に伊和志津神社として鎮座しているが、この神社は『延喜式』の神名帳によると、大社として官社のなかでも格が高い神社となっている。一般に官社は祈年祭にあたって国家から幣帛(へいはく)を受けるのであるが、大社は月次祭(つきなみのまつり)などの祭祀にあたっても幣帛を受けている。この神社の場合は、月次祭はもとより新嘗(にいなめ)祭にあたっても幣帛を受けることとなっているから、式内社としても相当社格が高かったことをしめしている。しかし、伴信友が著した『神名帳考證』によると、『延喜式』にしるしている祭りのなかに「祈年神祭」という祭があるが、これをおこなう神社として、武庫郡内では名次神社がみえて、伊和志豆神社はしるされていないことを指摘し、祈年祭はすべて大社でおこなわれるものであるから、むしろ名次神社が大社であり、伊和志豆神社は小社であったのではなかろうかという説があることを記している。しかしこの説をあげるだけにとどまり、改めることについては慎重である。各神社の祭神に対して与えられる神階は神がみの格をしめすものであるが、この二社を比べてみると、『三代実録』の貞観元年(八五九)正月二十七日の神階記事によると、名次神は従五位下から正五位下に、伊和志豆神は従五位下から従五位上になったとあり、ここでははっきり神格に差が生じていて、名次神の神格が高くなってきている。
 伊和志豆神社がどのような神社であったかについては、史料のうえでは今までしるしたほかは知ることができない。ただ伊和志豆神社のある伊孑志の地は『姓氏録』などによって、滋野朝臣の旧姓である伊蘇志臣の居住地であろうことをすでにしるしたが、もしそうだとするとこの氏族が祭っていた神社なのかもしれない。

写真128 伊和志津神社


 有馬郡の式内社  宝塚地方に隣接する地域として、また早くから有馬温泉をめざして往来する交通路が宝塚地域を通っていたことからも、有馬郡は宝塚地方と関係が深いので、この郡の神社について若干述べてみよう。有馬郡には有間神社・公智神社・湯泉神社の三社がある。はじめの有間神社については式内社であることだけしかわからないが、公智神社は樹木の霊である久々智神が祭神であり、久々智氏と関係があるらしい。また武庫郡の伊和志豆神社のところでしるしたように、湯泉神社も官社として格の高い神社であったらしく、大社となっているが、この神社は古くから三輪(みわ)神社とか三輪明神とよばれていた。史料のうえからは明らかではないが、この神社の祭神が当初から三輪神であったとしたら、すでに述べた川辺郡の多太神社と同様に神人(みわびと)氏との関係も考えられるが、はっきりとした証拠はない。
 以上、川辺・武庫・有馬の三郡の式内社のうち宝塚地方に関係のある神社についてしるしてきたが、これら神社は、まえにも述べたように、集落の中心的位置にあって、それぞれの集落を考えるのに重要である。神社の祭神およびその祭神を祭る氏族を知ることは、こうした集落を中心としてひろがる氏族の勢力圏をも知ることができよう。もちろん集落は農耕を中心とする村落共同体として形成されたと考えられるから、地域的には河川を中心とする水系に集落が分布するのは当然であるが、神社もまた一つの中心的特徴をしめしている。猪名川流域には川辺郡の式内社である多太・小戸・鴨・伊佐具・伊居太の神社群が南北に分布し、武庫川流域では川辺郡の式内社の高売布・売布の二社および武庫郡の式内社である伊和志豆・広田・名次・岡太の四社がつながっているのがそれである。