六世紀のなかごろに仏教が伝来して半世紀を経た推古天皇三十二年(六二四)の寺院・僧尼の数は、寺院四六、僧尼一三八五人と、『日本書紀』に記録されている。それから約七〇年のちの持統天皇六年(六九二)になると寺院の数は五四五に達したと『扶桑略記(ふそうりゃっき)』はしるしている。飛鳥時代から奈良時代前期にかけて仏教文化が興隆の一途をたどった様子がうかがえる。事実、今日の研究調査によって知られている奈良時代前期(文化史上この時期を白鳳(はくほう)時代という)の寺院跡の数はほぼ同じ数をかぞえるのである。
西摂地方には、飛鳥時代にさかのぼる寺院の存在は認められていないが、白鳳時代の創建を遺跡・遣物のうえから確認できる寺院跡が五カ所ある。それは豊中市新免の新免廃寺、尼崎市猪名寺の猪名寺廃寺、伊丹市緑ケ丘の伊丹廃寺、芦屋市西山町の芦屋廃寺、神戸市長田区前原町の房王寺廃寺である。
このうち、猪名川流域にある伊丹廃寺と猪名寺廃寺は、発掘調査によって、塔と金堂の基壇が検出され、ともに法隆寺式の伽藍形式をもつことが明らかにされた。ことに伊丹廃寺は綿密な調査によって、伽藍の旧状が確かめられて、塔跡と金堂跡が復原保存され往時をしのぶことができる。塔と金堂の中心の間隔が、現在の法隆寺と同じであって、法隆寺にならって建築されていることが知られるが、金堂の間口と奥行の比例が、法隆寺のそれとすこし相違し、また講堂の位置が異なるなど若干の特色をもっている。出土する創建時代の瓦の様式も、大和の片岡王寺のものと同様式ながら、やや形式化して、そこに地方色をしめしている。中央の文化をじゅうぶんに反映しつつ、地方色をもそなえているといえよう。
当時の地方寺院は、それぞれの地方の有力氏族の建立になるものが多い。両廃寺の建立については、猪名寺の造立者として川原公、伊丹廃寺の造立者として凡河内直(おおしこうちのあたえ)が比定されている。
宝塚市域内には、上記したような仏教文化の遺跡はみいだされていない。しかし、北米谷の旧片岡邸内で発見された骨蔵器を納めた火葬墓の存在はみのがせない。この火葬墓については第三章第二節で詳述したが、仏教をいち早く取りいれた有力氏族がこの地方にあったことを、最も具体的にしめす事実であるからである。
奈良時代に入ると、宝塚や伊丹地方が行基の布教と社会事業の活動の場となったことが注目される。まえにふれたところであるが、当時の農民の生活は労苦にみちたものであった。なかでも調や庸の品じなをみやこに運ぶ仕事、みやこで課せられる種々の労役はたいへんな負担であった。みやこにのぼる片道の食糧などは支給されたが、帰国の費用についてはほとんど配慮されず、飢えと疲れにより、餓死し、病気に倒れ、野山に屍(しかばね)をさらす者も多かった。政府や政府の命による豪族の一時的な救済はあったようだが、これは恒常的な救済施設ではなかった。
『行基年譜』によると、天平三年(七三一)行基は川辺郡山本村に「〓陽施院(こやせいん)」を設けたとある。また天平十三年(七四一)川辺郡山本里に〓陽上池・同下池・院前池・中布施屋池・長江池の五つの池と〓陽上溝・同下池溝の二つの溝をつくり、〓陽に布施屋一屋をつくっていることが知られる。
施院は近在の貧しい農民を救済する施設であり、同時に行基の布教・伝道の場となったものであろう。これが昆陽寺の前身である。
旧西国街道に相当する道路は、細ぼそとはしていても当時もあった道であろう。そしてそこは、税の品ものを運ぶ農民の往来も多かったと思う。池をつくり、溝を掘って在地農民に勧農のかたわら、行基は布施屋をつくり、調庸運搬の苦役に悩む農民に救いの手をさしのべたのであった。『行基年譜』によれば、山城・摂津・河内・和泉の四国に九カ所の布施屋を設けている。川辺郡山本里に設けられた布施屋はその一つであった。